「活動家としての俺は、あの時に消えた。家内と一緒に中継を観てるさ」
「そうか。また後でな」
終話通告の電子音を確認してからフリップを閉じ、傍の喫煙所で紫煙を吹かしている林に携帯電話を返した。
「来ないって?」彼女は口許を僅かに上げて笑む。踊がどんな返答をするかなど、はじめから分かっていたような口ぶりだ。──実際そうなのだろう。
黎もジャケットの懐から煙草を取り出して咥えた。
五年も昔、それも第三世代同盟が発足する前の事とはいえ、かつて最左翼の活動家として功績を残した踊を、黎は今夜の決起に招きたかった。しかし、彼がこの場にやって来る事はないだろうと林が悟っていたように、黎もそれを何となく感じていた。
活動家として再起するには、五年前の衝突事件は踊の内面をあまりに酷く痛めつけた。そろそろ過去の負い目にも別れを告げねばならない頃合いだと以前に吐露していたが、それは彼自身が思っていた以上に困難なことだったのだろう。
先ほどの会話で、これ以上言い迫る意味はないと黎は思った。踊は今、第三世代同盟と共に闘争を再開する意思の欠片すら抱いていない。ならばその間は、彼の家族という事件後に手に入れた幸福の中で暮らしていてほしい。失ったものが高すぎる代償だったとしても、今の彼にとっては些細なものに過ぎないかもしれないのだから。
他にも大勢いるそんな者達の為にも、皇華や林、第三世代同盟の同志達と自分は闘争を続けねばならない。
そろそろ時間ね、と林が右腕に嵌めた時計を見ながら言う。永誠広場全体を見渡すことが出来るよう設営された演説台の裏の待機場には、同盟の上層幹部と推薦された代表の活動家達が集結し、高揚した表情を浮かべている。黎は彼らを一瞥し、
「周がいないな……」
「会合が入ったらしいわ。代わりにスポークスマンが来てる」続いた林の言葉によると、これから始まる総決起集会に参席しない予定の上層幹部一派が周を招聘して会合を行っているという。それが事実だとすれば、今後の活動方針の確認が主題の内容だろうと推測できるが──
吸殻を備え付けの灰皿に捨てると、黎は踵を返した。
「アンタ、本当にいいの?」
「ああ。話すのは苦手だ」と、軽く嘯き待機場の出口へと向かう。その時、聞きなれた声が黎を呼びとめた。頭をかきながら振り向く。皇華が演説台の階段を下りてきていた。
「体調は?」
「うん、今は大丈夫……」──嘘だな。黎は皇華が無理をして取り繕っているのを彼女の顔色から察したが、そのことについて今さら言い咎める気はなかった。
「今夜は、黎も出て」
「遠慮しとくさ。前にも言ったろ? 影は影のままが一番なんだよ」
一昨日の会合の夜、黎は彼女にそれぞれの立ち位置の在り方について諭した。
──皇華は、自分や他の活動家達にはない稀有な才能を持っており、これからその才覚が何よりも必要とされる時代がやってくる、と。その存在と必要性を完璧に自覚できていない彼女の為にも、黎は影に徹することをあの時から既に選択していた。
だから、長年夢見てきた今夜の舞台にも自分は姿を現さない──全てが達せられるまで存在しないことを予め決めていたのだ。それは決して揺らぐことはない。
皇華は黎の赤銅色の双眸を真直ぐに見つめていたが、やがて唇を引き結ぶと小さく頷いた。なんとなく感付いたのかもしれない。自分が持ち続けてきたその意図の断片に。
幻夜城市の郊外墓地に眠る母から受け継いだ彼女の艶やかな黒髪を撫で、黎も頷く。
「ちゃんと観てるよ」
「うん、絶対観ててね」
視線をずらし、喫煙所で何本目かの煙草をくわえている林を見やる。
「お前も、頼むぞ」
「はいはい」半眼でこちらを見ながら、そっけなく返事を返してきた。影の活動家としての立場を貫く以上、自分がこの場にとどまる必要はない。
今夜だけは、林が自分の代わりとして皇華の後ろに立っていてくれる。
黎は再度踵を返し、待機場を後にした。手で幕を払い、外に足を踏み出す。
肌で容易に感じることができるほどの熱気が満ちていた。
第三世代同盟の活動家達と彼らを支持する幻夜城市の群衆が今、この中央街区永誠広場に集結している。この広場は数十年前幻夜城市が特別行政区として承認され、永世の繁栄宣言が成された地だった。
今夜ここで、もう一度新しい時代の始まりが宣言される。
混雑する人垣を縫うように通り抜け、演説台に上がる同志達を正面から観ることができる位置に辿り着くとそこに留まった。
「──始まるな」
膨大な群衆の中に交じりながら、黎は呟いた。革命への本格的な闘争は今夜を境にして展開するが、相応の歳月をかけてここまで辿り着いた自負が、その一言に含まれていた。
愛用のオイルライターで煙草に火を灯し、夜半の空を仰ぎ見る。雲の一つすらない、恐ろしく澄み渡った世界がそこにはあった。超高層建築物群が無秩序に犇めき合い都市機能の基盤が地上から離れた中央街区には、大運河付近の地区を除いてしまえば地上から空を直接見晴かす事の出来る場所が殆ど存在しない。
戦後、日本政府から派遣された技術者集団を中心として幻夜城市の都市開発が始まり、それからこの都市は急激な変貌を遂げた。虫食いのように空が失われていく中、かつて繁栄宣言が成されたこの広場だけは空と地上を繋ぐ世界として幻夜城市の中に残り続けた。
だが、そんな永誠広場の上に広がる空の様相とは裏腹に、黎の頭の中には一抹の不安があった。
──周が総決起集会に参席しない。
林から聞かされた話が本当ならば、彼は外周都市から完全に隔離されたこの中央街区のどこかで今頃会合に臨んでいるはずだ。会合が行われているという事自体は最低限信用してもいいだろうが、その内容と相手に関しては黎はそれを頭から信用していなかった。林もそうだろう。
静独家を筆頭とする第三世代議会組織群が、同盟に協力体制を見せ始めているという噂がそう考えさせるのだ。周が同行を承認し、作戦に急遽参加してきた靜独家のあの構成員達の事を思い浮かべる。作戦終了直後に気付いた事だが、大鉄橋を爆破する際、既に彼らの姿はなかった。作業に参加していた林も、いつ消えたのか分からなかったという。
何の確証もなければ、何が起こるとも言うことができない。──だが、踊は警告を発していた。活動家を引退して五年が経った現在でも彼が持つ人脈は強く、そこを基点の一つとして構築されている情報網は信憑性が高い。
今後、何か問題が発生するとすれば必ずそこからである。上層部一派と周は靜独家の件について一切の機密を通してきた。
それが黎の、周への猜疑心を生んでいた。しかし、今はこの総決起集会が無事完遂されるのを待つしかない。皇華も、上手く乗り切ることができれば幸いだ。
吸い終えた煙草を爪先で捻った時、何の前触れもなく黎の意識にそれが浮上してきた。
「あの夢……」
黎は一昨日にあの夢を見るまでも、それに酷似したものを見ていた記憶があった。それは言ってしまえばあまり面白くない夢に過ぎず、現実と結びつけて疑問に考えること自体が黎にとって意味のないことであった。だが、それを理解しているにも関わらず黎は夢のことを度々思い出すようになっていた。
ぼんやりとした不安のようなものが、意識の底で揺らめいているのだ。
イヤな予感がするという類のものではない。しかし──
何か意味があるのか、それとも──
思案に沈みかけたその時、空気が震えた。顔を上げると、群衆が手を振り上げ声を上げていた。踏み鳴らす足が大地を揺るがす。
始まったようだ。
思考を隅に押しやり、前に視線を向けた。黎は比較的長身のため、背を伸ばさなくても正面に鉄骨で組み立てられている演説台を目視することができた。
最初の代表者が姿を現し、群衆は夜の静謐を跳ね除ける歓声を上げる。短い挨拶の後、予め選出されていた活動家は思い思いに演説を展開し、広場に集まった者たちはそれに耳を傾けた。
──皇華は最後に演説台に上がった。一際大きな拍手と賞賛の声が皇華を出迎え、皇華も手を軽く上げてそれに答えた。
やがてどこからともなく静寂が訪れる。
「──今夜から、私達は自由へと繋がる闘争を開始する」
皇華の紡ぐ言葉は今まで第三世代同盟が直面してきた多くの危難と、それを文字通り踏み越えてきた強い意志を象徴するものだった。一言も声を発さず、彼女の言葉に聞き入る群衆の心を強く捉えて放さない求心力を黎は感じた。
永誠広場に集結した者達の、それまでは決して完璧な一体ではなかった空気が静寂の中で一つとなり、一個体の強大な、新しい闘争組織へと変貌しつつある。
皇華は多くは語らなかった。時間にして十分程度、しかし彼女の言葉に完全に引き込まれた群衆は時間の経過など、全く感じていなかっただろう。
皇華の演説も終りが見えてきた。彼女が最後を締めくくると同時に、今夜最も大きな拍手と歓声が送られるだろうと、黎は想像した。
演説が終了し、それは現実となった。
総決起集会は成功した、黎は確信した。
──変化は、まさにそれと同時だった。
りん──
耳を劈き頭の中で響き回る鋭利さを孕んだあの音──
黎は耐え難い痛覚を感じたが、それを無視して駆け出した。
それまで演説台で群衆の歓声の応えて手を上げ、気丈を保っていた皇華の様子が変わったのだ。
音が広場を埋め尽くしていくのに合わせて皇華の表情が歪み、彼女は頭を抑えてその場に蹲っていく。天を割る勢いの歓声が続く中、幾人かが変化に気付き、演説台の方を指差す。前方を埋め尽くす人垣を蹴飛ばす勢いでかき分け、演説台の下部へと向かう。
黎は今までに感じたことのない感覚に突き動かされていた。
身体を蝕む苦痛を意志で抑え込んでいる皇華に万が一の事があった時は、林が対処する手はずになっていた。だから、自分がここで必要以上に焦る必要などないはずだった。
だが、これは違う。黎は直感的にそう感じていた。今までとは全く違う。
「皇華……!」
黎の張り上げた声が聞こえたのか、皇華は苦痛に歪み切った顔を上げた。黎は彼女の顔に映ったそれを見て、一瞬足を止めた。
──そんなはずはない。
現実でないならば、それは錯覚以外の何ものでもない。だが、黎は自分が見たそれは事実なのだと瞬時に自覚した。
誰だ、お前は──
皇華に被って映るその者。
そいつは、皇華に重なるそいつは、皇華の中に巣食う、皇華の皮を被っただけの、あの、夢の中に出てきた──
──夢?
無意識の内にとまっていた足を前に運ぼうとした刹那、黎の背中に轟音が叩きつけた。黎は背後に倒れ掛かってくる群衆の圧力に押されて上半身を伏せた。
閉ざされた視野の中、歓声が悲鳴に変わる。傍で誰かが何かを叫び、次には爆発だ──と、別の誰かが騒いだ。
「爆発──?」
状況を確認する為に、背中に被さっていた男の身体を強引に押しのけて立ち上がる。轟音の音源を辿って広場の後方を見ると大階段の踊り場付近から黒煙が上がり、その根元に赤々しい炎が生まれている。
どういうことだ、と黎は思考を巡らせようとしたがその前に皇華のもとへ行かねばと身体を向けようとした──、
──まさにその方向から爆音が響き渡った。
視界に広がる爆炎。破壊された鉄材が飛散し、不可視の凶器となって群衆に降り注ぐ。その中に交じる血雨の雫が黎の頬を打つ。
「皇華──」
燃え盛る演説台の残骸が傾ぎ、大きな震動と共に崩壊して噴煙の中に姿を消してゆく。それと同時に群衆の悲鳴の質が変わった。黎は鈍った意識の中で反射的に視線を巡らせる。突然の出来事に混乱した群衆は、大階段に向かって我先にと流れ始めていた。途中で蹴躓き、転倒した者は絶叫と共に人波の中へ容赦なく飲み込まれていく。
まるで壊走だ。人波の隙間からその集団を目撃した時、黎は自分の言葉が現実になった事を悟った。
「軍警察だっ」
混乱を収拾しようと奔走していた活動家の一人が、大階段からマスクを装着して侵入してきた重武装集団を見咎めて叫ぶ。それが群衆の恐怖を一層増長した。
ぼん、というくぐもった発射音が立て続けに響き、黒い物体が空中に白い尾を引いて広場の中へ飛び込んでいく。あちこちで白煙が瞬く間に発生し、広場を覆い込み始める。
「黎!」
手で口許を覆った林が姿を現した。鋭く裂けた額の傷口から流れる血が、彼女の顔面を朱色に染めている。その現実が、黎に正常な意識を取り戻させた。
「軍警察が来たわ、逃げるのよっ」せわしなく辺りに視線を走らせながら、彼女が黎の手首を掴む。
「……皇華、は?」
「彼女は────」
林はどうしたものかと適切な答えを捜すように目を寸秒伏せた後、視線を逸らして短く首を横に振った。
「まだ、あっちから抜けられる」
思考の停止した意識で林に手を引かれながら足を進める中、態勢を持ち直した一部の集団が軍警察の強襲部隊と交戦しているのが目に入った。若い活動家が散弾銃を至近距離から軍警察強襲部隊の隊員に向けて発砲し、脳漿が辺りに飛び散る。別の隊員が警棒で若者の後頭部を殴打し、その若者は昏倒して見えなくなった。
どうして、軍警察が──
逃げ場を求めて移動する群衆がぶつかり合う混乱の最中、黎は唐突に何者かの存在を感じ上空を振り仰いだ。
「黎っ」
林が腕を引っ張ろうとするが、それを振り払ってその場に佇む。林との間に割り込んできた群衆の波が彼女の身体を瞬く間にさらっていった。
どこだ、どこから──
白煙が満たされた視界の中、天空に向かって聳える超高層ビルの群の先端が赤く照らし出されている。
遠く離れたビルの上層──黎の双眸に、視認できない距離にいるはずのそいつの顔が飛び込んできた。
静独家が、動いているらしいな──
警告を発していた踊の言葉が脳裏を過る。
口許を歪めて大広場の混沌を睥睨する男。
知っているぞ──
「靜稔海……!」
黎はその者の名を叫んだ。
その言葉に重なる声があった。声がした方に振り向く。
黎と同様の方向に鋭い視線を向けている男がそこにいた。暗色のブルゾンを着こなした長身の男。どこかで会ったことがあるような、どことなく異国籍風の雰囲気を湛えている。
視線を感じたのか、男は流し目を黎に向けた。それだけだった。
黎もそれだけで思い出した。
踊と最後に会った夜、バーにいたあの男──
その男の黒い双眸に煌々と輝くヴァイオレットが宿った時、黎は周囲の様子が急激に変わったのを感じた。
それは、男の双眸から溢れ出す鋭利な殺意に対して、原始的な恐怖を覚えたからなのからかもしれない。その存在に黎のみが相対したからこそ、それに気付くことができた。
黎と男が佇む混沌の世界の音が、消えていた。いや、呑み込まれていた、という方が正しい。
それを境に男の様子が変わった。
軽くウェーブがかっていた砂色の髪が逆立ち、全身が膨張し始めたかと思うと、ブルゾンの生地が張り裂け、針金を思わせる体毛に覆われた身体が現れる。人の形をしていた顎が変貌し、狼を思わせる犬歯が鈍い光を放つ。手足の指先から生える人外の爪。
変化が終わった時、眼前に一匹の獣が存在していた。
黎はその場に立ちつくして、その全てを観ていた。言葉など出てこない。ただ、そこに今まで見た事もない、異形という一つの脅威が混沌の中で発生したという事実を観ていることしかできなかった。
殺意がとめどなく溢れるヴァイオレットの双眸を空へ向け、人の背丈をはるかに凌ぐ巨躯の獣は低い唸り声を上げる。次の瞬間、周囲を覆っていた白煙に裂け目が生じ、獣の頭部を毒々しいほどに赤い炎が包み込んだ。
誰かが攻撃した? しかし獣は側頭部に受けた攻撃などでひるむ事はなく、頭を振っていとも簡単に炎を散らした。火の粉が黎の二の腕に届く。
獣は咆哮を上げ、自らの足で大地を砕き跳躍した。
この時の黎には、その場から一刻も早く離脱しようという思考が抜け落ちていた。
直後に起こった激しい震動で黎は体勢を崩した。
どおん、と響く新たな爆発音。それに続き複数、白煙に満たされた視界の先から同様の音が轟く。
「な、何だっ?」
足元から伝わってくる崩壊の調べ。
直感的に危険を感じ、林が流されていった大階段の方角へ進もうと走り出した瞬間、足場に無数の亀裂が走り──身体が宙に投げ出された。
──永誠大広場が、崩落した?
瓦礫と共に地下へと落下してゆく中、黎は深遠の闇に喰われていく空を途切れかけた視界の先に垣間見た。
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