Episode6

 

 目が覚めた。
 もしかしたら覚めていた──と形容する方がいいかもしれない。今、自分はその境界線がどこだったのか、いつ飛び越えたのか理解できていない。事前に心構えができていたとしても、それを捉えることは恐らく不可能だっただろう。
 そう思わせてくれる世界が、在る。
 一点の光も何もない。
 そこは、原始の闇の深遠のような場所だった。
 自分はどこにいて、どこを向いていて、どこへ行けばいいのか。何も認識することが出来ない。
 ただ、自分の足でどこかに佇んでいる。それだけが自分の身に起こっている一つの事実として考えることができた。
 その足の感覚が何故か妙に感じた。

 ──変だな

 そう自覚すると今度は体と繋がっているはずの右腕に同じ似たような感覚を覚えた。
 あれ?
 意識でしか自身の存在を認識できない深い闇の中で、その妙な感覚は次々と溢れ出してくる。だが、分厚い膜に遮られたようにその感覚の正体が何なのかはっきりとしない。できない。
 今まで経験した事のない、しかし意識がそれを感じている。

 ──これが、闇に浸かるということか

 どれほどの時間が経っていたのかは最早知りようがない。先ほど目が覚めたのかもしれないし、それ以前から既に意識があったのかもしれない。
 いずれにしろこの世界が時間の概念の影響を受けて変化する兆などは恐らくないだろうと、何となく理解していた。
 だから、とりあえず動いてみることにした。

 ──重いな

 今や全身に拡がっているものと同様、闇の世界のどこかで一歩踏み出した足にもあの感覚はあるが、それとは関係なくそう感じた。まるで、泥の中を歩いているようだ。
 もう一歩。もう片方の足を動かそうと意識で働きかけた時、身体が大きく傾いだ。慌てて手を突こうとしたものの遅く、肩から倒れこむ。割と激しく転倒したと思ったが、ゆるりと吸い込まれていくような感触が接触と共に生まれ、それは肩から全身へ伝播していった。
 痛覚なども妙な膜に遮られたように感じなかったが、惰性で小さな悲鳴を上げてしまった。無様なもんだな。
 その時だった。

 眼前に、ぼう、と浮かび上がる一つの灯。

 倒れこんだ体勢のまま、視線と同じ高さの所で静かに揺らめいているそれを見つめた。

 火──?

 これまでに見た事がない程に深い紅を宿した小さな火は、しかし今にも消え入りそうな具合に目の前に在り続けている。
 近い方の腕を火に伸ばしてみた。自分の骨ばった手がぼんやりと映し出される。触れるか否かの距離にまで迫ってみても、その火は熱といえるほどの熱さを持っていないように思えた。
 一時逡巡した後、火を包み込むようにして手で覆った。

 ──冷たい

 指の隙間から淡い光が筋となって溢れている。手の中に収め、全身に降り積もった泥を払いのけるようにして立ち上がった。

 消える

 焦った。だがそう思った次には、その火は手の中でふ、と消えてしまった。また、この世界は深い闇の中へと落ちてしまった。自分が立つ地面の色だけを知る事ができても、何の役にも立たない。困ったな……。
 どうしようもないと思い始めたと同時に、眼前にまた、あの火が生まれた。

 あ──

 全身に纏わりつく闇の中を進み足元の火に近付くと、同じ深紅を宿した火が連なるようにして幾つも現れ、上に向かって伸びる螺旋状の二つの朱線を作り上げていく。
 深遠の闇に包まれたこの世界にも、まともに上があるのだと初めて知った。
 しかし、それは途方もない高さだった。一応周囲を見回してみたが、そこには何らかわり映えのない先ほどまでと同じ闇が不可視の世界の先に広がっているだけである。
 上るしかない、か。
 浅くため息を付き、その無限に連なった火が作る螺旋階段に足をかけた。


 闇を上っていくというのは、変な感じだ。両脇に火が揺らめいているとはいえ、それは酷く小さく、ただ螺旋階段の境界を構築する役割を果たしているだけに過ぎない。足元は相変わらず、闇に埋もれたままである。階段は上へ続いているが、途中どこを望んでも何も変わらない。
 そんな世界の中を延々と、上り続けた。

──長いな

 一人だけの暗い世界の中で、ぽつりと呟いた。
 ある変化が訪れたのは、愚痴にもならない呟きすらなくなり、思考までもが無言になり始めた頃だった。  身体が、軋む。先ほどから全身に纏わりついていた妙な感覚が、こう、何というか、鮮明になってきている。泥のように重かった闇も明らかに軽くなっていた。
 やっと、か? それを考えると急速に、心が逸りはじめた。闇の泥をかき分け、早足で上る。

 ぎし。

 ──なんだ?

 身体の軋みが、おかしい。全身に纏わりつくその感覚から徐々にフィルターが取り払われていくことに、段々不安を覚えるようになってきた。これは──
 残っていた片方の足が前触れもなく沈んだ。慌てて足を持ち上げる。後ろを見やると、そこには自分がはじめにここにいた頃と同じ闇があった。火の螺旋などは既にどこにも見当たらない。足元に流れ始める冷気を帯びた流れ。両脇の火が、ふ、と掻き消える。
 まずい、と瞬時に悟り、駆け出した。
 足元の見えない螺旋階段を数段飛ばしで駆け上がっていく。流し目で後ろを見なくとも、刺すような冷たさを孕んだ闇が肌で感じられる。
 ここまで上ってきたからこそ、分かる。自分はこんな所にさっきまでいたのか、と。

 ええい、まだか──

 いつしか終りを感じるようになっていた。相変わらず闇は深い。しかし、感じるそれが変わってきている。身体が軽くなり、また軋みが急速にひどくなってきている。
 例えようのない不安が心を蝕みかけていた。上りきったら、そこでどうなんだ? いいことがあるとは限らないんじゃないのか。
 かぶりを振り、自分を疑うという邪推な考えを追い払う。
 近付いている。確実に近付いている。
 と、すぐ目の前の火が掻き消えた。やばい。
 浅い息を吐きながら、自分の身体をさらに痛めつけるように早く駆けた。
 呑みこまれる。もうすぐだ。

 ──あ、

 終わる──
 どこを見ても何も見えない、暗く、寂しい世界で、しかし、この世界の終りを感じた。
 ──ざまあみろ

 ごう。
 はじめに鼻腔が捉えたのは、甘ったるく粘ついたにおい。わずかに酸味を帯びている。
 これは……肉の焼けるにおいだ。
 人の肉が、焼けて炭化していく独特の──
「あぐっ──」
 頬に激しい痛みが走った。咄嗟に手を伸ばしたが、その時掌に不快な感触があった。ぎこちない動きで手を目の前に持ってくる。掌にくっついていたのは、全体的に黒ずんでいるもののまだ赤みが残っている、皮膚。  自分の皮膚だ。
 その事実を認識したが故、意識はあったが声を出すことができなかった。焼却が進行したのか、既に頬にはほとんど痛覚が残っていない。神経まで灼かれた。
 肉が焼けてるのは、俺か。
 剥れた頬の皮膚がくっついた手を持ち上げたまま、ようやく周囲に目を向けた。

 赫い世界──

「火──……」  深紅の炎が意思を持っているかのように大地を這いまわり、天をも焼かんとしているかのように猛っている。何も見えない。紅く蠢く業火しか。
 生き物のように踊る紅い炎が不意に叩きつけてきた。じゅ、と皮膚が燃やされる感覚を自覚した次の瞬間には、その部分は何も感じることができなくなった。
 ぶつん。右の視界が途切れた。思わず俯く。なんだなんだ、これは。
 眼まで焼かれ──
 下がった左眼の視線の先にあったそれを見て、思考が一瞬止まった。
 胸部から、何か飛び出ている。白く鈍い色を放つ、赤い液体に濡れたそれ。さらに下の腹からも、何かがはみ出していた。
「これ──」
 そこまで言いかかって喉の奥に何かが詰まり、皮膚のついた手で口を塞いだが抑えきれず、ごろごろと砕けた何かの交じった鮮血が勢いよく噴き出す。
 急速に霞み始めた眼で、全身を見回した。
 そうか──あの感覚の原因は、これだったか。
 自分の身体の状態を確認して、納得した。右足は膝の辺りでおかしな方向に捻れて途中から骨が皮膚を突き破り、片方の足も一見何もないように見えるものの、内部に変調をきたしているのが分かった。両腕も大体似たような感じであった。
 ……よく、これで走ってこれたな。
 今まで疑問に思わなかった事自体が疑問だが、ここは──
「……?」
 全身の感覚と同様、途切れかけた意識の中で誰かの気配を感じ、ふらふらと視線を上げた。
 前方の激しく蠢く深紅の業火の向こう側に、人影があった──こっちへ、来る。
 その人影は、炎を愛でるように纏っていた。ほとんど何も見ることができなくなった自分の世界の中で、そいつが目の前に佇んでいる。
 獲物を見つけたかのように深紅の炎が自分の周囲に渦巻いているのを感じる。
 眼前のそいつはわずかに口許を歪めて、笑んでいるような気がした。
「また、終りか──」









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