Episode4

 

 対岸の影が夜の帳の中にうっすらと浮かび上がっている。
 静かに揺れている水辺に吸殻を捨て、黎は階段を上がった。踊り場に出ると、すぐ脇に鉄橋の入口を封鎖している鋼鉄の扉が目に入った。半年ほど前から大鉄橋は夜半を過ぎると全面通行禁止となり、外周都市区画と中央街区は運河で遮断される。
 普段なら各大鉄橋付近の詰所を拠点に駐在している沿岸警備隊の姿は一人も見当たらず、代わりに周囲には南部原隊から選出された活動家達が集結していた。
 陽動部隊の作戦が功を奏し、今頃警備隊は第一層地下防水隔壁へと誘導されている最中なのだろう。
 黎の所属する中央部隊の大部分は人員を分散して各地区の部隊に加わった為、黎自身も南部大鉄橋の実行部隊に配属されていた──正確には自ら入った、だが。
 肩にかけたSR-84小銃のスリングをなおしていた時、黎の眼に見覚えのない者達の姿が映った。
 一様に黒く、長袍をベースにしたと思しき裾の長い服を着こなしており、他の活動家達とは明らかに異なる雰囲気を湛えている。道路から若干離れた建物の壁際で南部実行部隊の指揮官格である周と、何か言葉を交わしているようだ。
「やっと来たの、黎」
 振り返ると、蘇芳色の髪を纏め上げた長身の女が手を上げていた。
「林か。何だ、あいつら」煙草を咥えながら視線をそっちへ送る。林は頭をかきながら、声を潜めて耳打ちするように言ってきた。
「靜独家の下っ端らしいわ……。上が本腰入れ始めたみたいね」
 林は、現在一線を退いてバーを営む踊の同期である。五年前の軍警察との衝突事件に参加した後も第一線で活動を続け、黎や踊と同様、第三世代同盟の靜独家との前向きな協力体制に猜疑的な考えを持つ者の一人だった。
 煙草をねだられたので、オイルライターと一緒に渡す。
「実行部隊に何人か食い込むみたいだけど──周の阿呆、何考えてんのかしらね」
 妙な時期にやって来たな、と黎は思った。靜独家が第三世代同盟の協力体制に参入するのは、この作戦が終了した直後の方が時期的に良いはずである。どんな意図があったのかは計りかねるが、今のようなタイミングで動きを見せるとは……。
「そうか……皇華は?」
「一応、了承はしたみたい……」
 眉間に皺を寄せていた林の表情が、わずかに歪んだ。
 黎はそれが何を意味しているのかを瞬時に悟り、即座に彼女に詰め寄った。まずった、という顔を作った後、林は両手を小さく挙げて観念の意志を示した。
「ここにいるのか?」
「夕方頃にちょっと……倒れちゃって、代替要員出すから休むように言ったんだけどね。アンタにバレたらうるさいからって、口止めされてたのよ」
 やっぱりか、と黎は思い、同時に胸中で舌打ちした。
「どこにいる」林は煙草の箱とオイルライターを返し、黎の背後にある建物脇の通路を指差した。
「黙っててよ」
「──ああ。すぐ戻る」
 所定時刻を待つ仲間達を視界の隅に捉えながら、黎は路地裏に向かう。
 淡い青灰色の月光が生み出す建物の影の中を歩き、やがて視線の先にある角から誰かが激しく咳き込んでいるような声が届いた。
 黎は角を曲がった。
 いた。
 壁に手をつき、空いている方の手で口を抑えている。足元には中身のなくなった瓶と錠剤が散乱していた。
 角に佇む黎の気配に気付き、皇華が驚いた表情で振り向く。
「大丈夫、何でもない……」慌てて袖口で口許を拭い、黎の脇を足早に通り抜けようとした。黎は不意に彼女の腕を掴み、強引に影に引き込んで壁に押さえつけた。
「黎──」
「どこが大丈夫なんだ」
 自分でも不思議に思うくらい平淡な声が口から出てきた。皇華の掴んだ方の手が細かく震えている。握る手の力をわずかに緩め、
「今からでもいい、休め」
 この作戦が無事終了すれば、二十四時間後に永誠大広場で行われる決起集会に、中央街区や地下に潜伏している大勢の第三世代同盟が押し寄せる。上層部に交じって皇華も演説台に上がる。その際、万が一不測の事態でも起こったら、この状態では確実に身を危険にさらすことになる。
 これは黎の、一人の活動家としての警告だった──。今回ばかりは大人しくいう事を聞いてほしい。
 皇華はその茶褐色の双眸に逡巡の色を浮かべていたが、やがて意を決したように首を横に振った。
「今夜の作戦は、私が立てたものだから──だから、最後まで見届けないといけない」
 皇華の華奢な手に、先ほどとは変わって力が篭っているのを感じる。黎は感情を出さないよう、押し殺した声で言った。
「もしもの事があれば、立ち位置が変わるぞ」
「知ってる──兄さん、お願い」
 固い意志を孕んだ眼が、黎を真っ直ぐに見据える。先ほどの迷いの色などは欠片も残っていない。
 ──黎は静かに手を放した。
 黎が母への弔いと、自らの自由を勝ち取る為に闘争に身を投じているのと同様、皇華もその為に動き続けている。自分が皇華を止める事が矛盾に満ちていることなど分かりきっている。この時ばかりはそうすべきだとも知っていた。
 しかし、黎はついにそうしなかった。
 務めて強く前を歩き始めている皇華の背中を見つめ、一つだけ訊いた。
「──あの夜、どこか行ったか?」
 皇華は立ち止まらず、「そんな訳ないじゃない。行こう、黎」
 何故か思い出していた。あの夜、自分が見ていた夢を。

 それは夢と言い切ってしまうにはあまりに、たとえようのない恐怖を孕んでいた。


 入口を封鎖している鋼鉄扉の臨時開閉コードは傘下に置いた大鉄橋の管理企業から入手してあった為、不正規的な手段でシステムを改変する必要などはなかった。
 周と皇華を筆頭とする実行部隊が大鉄橋を運河に沈めるのに必要な装備一式を備えて、開放された鋼鉄扉の隙間から内部へ入り込んでいく。
 黎は振り向くことなく行く皇華の後姿を見ていた。最後尾の林が時刻確認の為に扉の前に立ち止まった所を呼び止める。
「林、頼んだぞ……」
「任せといて」
 眸で頷き、彼女は姿を消した。誰かに頼むというのは心苦しいが、危機的な事態に直面した際に皇華が頼れるのは自分の他に、ここには林くらいしかいない。
 黎はフェンスから離れると、現場に残った活動家達を一瞥した。
「予定通り、沿岸部及び所定区域に警戒線を張れ」
 活動家達が頷き、素早く方々の闇へと溶け込んでいく。煙草に火を付けてから、肩にかけていた小銃を両手に抱えて黎も走り出した。
 静まり返った大通りを渡り切る。途中ですれ違う仲間と視線を交わしながら路地に入り、所定の位置につく。右手の路地出口は沿岸部に面しており、そこから南部大鉄橋の全貌を望むことができる。
 耳に取り付けたインカムに指揮官である周から、設置完了の通信が届くのを待つ。大鉄橋の下層機関部で爆薬を設置している彼らの姿が見えるような気がした。
 澄み渡る星の海に向かって紫煙を吐き出す。
 黎は昨夜見た夢の一部始終を再び思い起こしていた。
 ──奥にいた誰か。それだけがフィルターがかかったようにはっきりとしない。記憶を引き出そうとすると、鈍く重い痛みが阻害してくる。
 黎は何故、こんなにもあの夢を気にしているのだろうと怪訝に感じていた。
 それは夢の中で垣間見たあの空間が──、
 ──いつか昔に訪れたひどく懐かしい場所のような気がしたからだろうか。
 いずれにしろ、ただの幻想に過ぎないものだと黎は断定し、いい加減にしろと胸中で自分を叱責して、思考を隅へと追い払った。

 影が視界を遮っていったのはその時だった。

 吸いかけの煙草を踏みつけ、沿岸部へと走り出る。隣の区画へと滑り込んでいった何かの影を追って路地裏に足を向ける。
 辺りが静謐に包まれているのは当然だが──それにしても、静かすぎる。恣意的に作られた静けさのようにすら感じる──。
 存在を気取られぬよう慎重に歩を進めていく。月光が横切る十字路の角に至り、アスファルトの上にできている赤い斑点が目に入った。
「血──?」
 面を上げた時、屋根に月光を遮られた通路の奥から風──いや、息吹を感じた。
 ──まるで獣のような。本能的にその場から離れようとして、黎は足が縫い付けられたように動かなくなっていることに気付いた。全身が粟立ち、額に汗が浮かぶ。引き金に指をかけた小銃の銃口を辛うじてそこへ向ける。
 何だ──








 ──闇の深遠に滲むヴァイオレットの光。








”爆薬の設置を完了した。総員、集結──”
 インカムに届いた周の声で、不意に身体に感覚が戻った。それを自覚してから改めて眼を向けた闇の先にはただの暗闇があるだけだった。
 沿岸部の角でその場所が見えなくなるまで来た道を下がってから、黎は意識を切り替えて集結点へと戻った。
 既に黎以外の仲間は全員集結し、爆薬の設置作業を終えて戻って来た実行部隊を囲んでいた。その中に皇華の姿を見つけ、密かに安堵した。
「首尾よくやったわ」
 振り返ると、林が壁にもたれて髪留めを解いていた。蘇芳色の長髪が彼女の背中に沿って下りる。
「後は、他地区からの連絡を待つだけね」
「……ああ」
 現在、午前二時半。残り五箇所の大鉄橋で作業をしている実行部隊から連絡が入り、地下防水隔壁に警備隊を引きずり込んだ陽動部隊が脱出すれば作戦は終わる。過去に交わされた日本政府との協定で行政府軍及び軍警察は地上部隊しか保有できないよう制限されている。沿岸警備隊については一部例外があるが、第三世代同盟によるこれまでの暗躍でそれらは殆どが機能不全となっている。

 中央街区は完全な隔離状態へ移行する。

「彼女は強い」
「──そうかもな」
 労いの意味合いを含めて煙草を林に手渡す。彼女は短く礼を言って咥えると、沿岸に佇んでいる皇華の背中に視線を向けた。
 林のその言葉が何を指しているのか、黎はよく分かっていた。皇華の肩がわずかに震えているような気がした。
 皇華の意志は、彼女自身の身体を蝕む痛みを無視しようとしている。
 まるでそれは、後戻りする道を自ら断とうとしているかのように黎の目には映った。
「失格、かな……」林には聞こえない声で、静かに呟いた。

 兄として。
 彼女を愛する一人の人間として。


 十五分後、全実行部隊が作業を完了。
 その五分後、地下防水隔壁へ進入した陽動部隊の脱出完了。

 南部大鉄橋から充分に距離をとった沿岸部に部隊は移動し、全員が目標に眼を向けている。黎は煙草を吹かしている林と並んで佇んでいた。その前に若干緊張した面持ちをしている皇華がいる。
「──了解。全防水隔壁機構開放を承認」
 無線を交わしていた周がそう呟いたのが聞こえた。
 地鳴りが響き始める。大鉄橋直下の地下防水隔壁第一層に運河の水が流れ込んでいるのだ。しばらくするとそれも止み、かわって対岸からけたたましい警報音が届く。
「黎、始まるね……」
「ああ、行きな」
 そう促し、皇華が周のもとへ歩み寄って掌に収まる程度の小さな起爆スイッチを受け取った。
「目に焼き付けておけ。これが、我々の革命の烽火となる」
 周が言った直後、インカムに秒読み開始の連絡が入った。
 中国大陸での、あの事件から五年もの歳月が経ったが、ようやくここまで辿り着いた。黎は眼を閉じ、ここに自分が至るまでの記憶に思いを巡らしてから、前を見据えた。
 皇華の視線と交錯する。黎は頷いた。彼女も頷く。






 幾重もの轟音が、幻夜城市の夜を貫いた。






 主要機関部が次々に吹き飛び、三十年の役目を終えた大鉄橋は眼前で水飛沫を上げながら運河の底へと沈んでいく。
「防水隔壁全管制システムは、現時刻を持って一時閉鎖。第一層及び第二層から第八層まで封鎖状態に移行するが、警戒態勢は各所轄部隊によって現状維持を続行」
 南部大鉄橋が鉄屑になって姿を消していく光景を最後まで見届けた後、作戦終了が告げられ次の段階へ移行するべく、実行部隊はその場で即座に解散した。
 大型バイクに跨る林と翌夜の決起集会で再び会うことを約束して別れた。
 壁に手をついている皇華のもとへ歩み寄り、黎は何を言うこともなく彼女の体を背負った。


 首の前で彼女が結ぶ両手の力は弱々しかった。








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