「顔色が悪い」
「誰の」
「お前以外に誰がいる」
半ば冗談で答えたつもりだったのだが、真顔で切り返されて返答に詰まった。手元のスコッチが入ったグラスを呷る。元々だ、という冗談は胸中にとどめておいた。
「──現場に、戻らないのか?」
「私には無理だ」
グラスを磨きながらバーテンダーは端的に抑揚のない声で言った。
踊は寡黙な男だった。大柄な体格に、常にかけているサングラスとスキンヘッドの風貌が、他人が近寄りがたい雰囲気を増長している。
彼とは幼馴染とでも言うべき間柄で、五年も前に一線から身を引いていた。
カウンターの隅にかけていた客が去り、踊は杖をついてグラスと紙幣の回収に向かう。
「満足に歩くことすらできん」
黎は踊に前線への復帰を促した訳ではなかったが、それでも彼には今もその意思はないようだった。
五年前、第三世代同盟が現在の組織形態として成立する前夜、踊は組織の最左翼で暗躍する過激派集団の急先鋒だったらしい。決して表舞台に立つことなく闘争の暗部に身を置いて動き続けた末、ある日起こった軍警察との大規模な衝突で足を一本と半分、それに同志を多数失った。
──しかし、皮肉にもそれが第三世代同盟を本格的な革命闘争の流れに乗せた。黎が身を投じたのは、衝突事件を誘発した前日の大陸での出来事がきっかけだった。
「皇華の名を、最近よく聞く。──近々、やるそうだな」
「耳が早いな。俺は喋らんぞ」
踊は口許を不器用に歪めて軽く笑ってみせる。彼はもとより無口な上、本人に失礼かもしれないが強面に見えて義理堅い男である。どこかの未熟な<客>が酒の入った勢いでうっかり口を滑らしたとしても、それを外部へ流して何かをしようなどというようなことは決してしない。
「お前の弔いがようやく始まる、か」
「……ああ」
空になったグラスを持ち上げる。踊は無言で小さく頷き、スコッチのボトル棚からを取り出すとバーテンダーとしての仕事に取りかかった。
黎と皇華の実母は、東京中華街治安維持組織・軍警察に所属していた。
当時、大陸政策の方針が連合軍総司令部内で分裂し、その空白を突いて現地に潜伏していた旧民族主義者らによる極左系組織は解放闘争を繰り返していた。日本政府は大陸全土の治安回復の為に再編制された連合軍への日本軍派遣を決定し、行政府軍と軍警察も共同出兵の要請を受けて共に大陸へ渡った。
──開戦から半年後、東部占領地での戦闘で、母は戦死した。
純粋な華僑の母が何故、同じ民族の人間によって命を絶たれねばならなかったのか。
──その理由は簡単である。
現地の者達にとって、母は単なる異国の人間に過ぎなかったのだ。
世界を混沌に引きずり込み、数十年間続いた先の大戦。開戦中期から末期にかけて膨大な難民がアジア各国に流入した。終戦後、日本へと渡ってきた難民達はそれぞれに集結して大小多くの外人街を形成したが、やがて誰からともなく首都圏へと移住しそこに一つの中華都市を作り上げた。それから数年の後、国内最大量の華僑を抱え独自の経済形態を構築していた中華街は必然的に唯一の特別行政区に指定され、以後五十年の長きに渡る都市反映の基盤を得ることに成功した。
だが、それは熱心な愛国者として現地に留まった者達には裏切りとしか映らなかった。母国を離れた民族は、その時点で裏切り者になっていた。それほどまでに、大陸に残留した”彼ら”は追い詰められていたのだ。
五年前の治安回復作戦終了後、行政府軍と軍警察の死傷者総計は日本陸軍を上回り、その数値が意味するところを大陸外に居住する全ての華僑達に知らしめた。
我々は最早、故郷を失っている。同じ民族ではないのだ、と──
結果、幻夜城市の若い世代──特に黎達のような日中混血が多い第三世代は中国大陸への自己の同一性を切り捨て、自分達が生まれたこの地こそを祖国として帰化することを求め始めた。
それが、第一世代──五十年前に日本へと移住してきた老世代達との軋轢を生んだ。かつての故郷を忘れられない第一世代の多くは過去の記憶に固執し、日本民族とあらゆる意味で同化することを拒絶している。
両世代の意識の相違はかなり以前から既に存在していたが、五年前の事件を境に決定的に顕在化し、それが第三世代組織という反体制武装組織を生み出した。
幻夜城市の革命と新たな時代の訪れを、母と父への弔いとすることを、黎と皇華は固く誓っていた──。
スコッチの水割りを黎の手元に置きながら、踊が静かに口を開いた。
「靜独家が、動いているらしいな」
「……そんな話もあったっけ」
「第三世代同盟に同調の意思を示している。どうやら、二週間前の話は本当だったようだ」
現在、幻夜城市の運営を統括しているのは行政府だが、それは単なる形骸組織に過ぎない。行政長官を始めとする中央委員会を構成している閣僚は全て、<議会>の意向によって選出された傀儡である。
それは、この街の人間であれば誰もが知っている公然の機密というものでもあった。
──統治機構、議会。
正式名称は存在せず、四つの有力組織によって運営される意思決定機関。機関を構成する組織群は全て、五十年前の幻夜城市黎明期に生まれた裏の顔を持つ企業──端的に言えば、非合法組織である。しかし、そう呼称して一括りにしてしまうには、彼らはあまりにも大きすぎている。
この半世紀、議会内でも多くの権力闘争が繰り広げられたと聞く。五十年前、靜独家の一族が率いていた財閥は強大な組織形態を持ち、混沌の渦中にあった街の勃興に尽力したが当主が病死した後急速に権勢が衰え、議会の末席にまで落ちたという。それに代わって議会を事実上総括するようになったのが、厳盟会という議会内で唯一第一世代の老人が当主を担っている組織であり、その権勢は今なお存続している。
行政府軍及び軍警察は厳盟会の子飼い組織という事実が何よりの証左である。
──だが、その現状に二週間前、変化が起きた。議会の一翼を担っていたある第二世代組織が権力闘争に敗れ、瓦解したのだ。
その相手は、末席の靜独家だった。靜独家は二年ほど前に当主が変死し、第一子の長男が組織を相続した。それから間をおかずして、同じ第三世代組織の白蘭華が厳盟会の支配下から離脱し、靜独家と同盟を締結したという。
噂では、先の見えない政策をし続ける保守権力に業を煮やした第三世代組織群が反旗を翻したということになっている。
「上層部が協力体制に前向きだという話も聞く。気をつけた方がいい」
「分かってる」
黎は短く答えた。
同じ第三世代同士とは言え、彼らと自分達では立場も思想も全く異なる。目先の利益に飛びつけば、必ず落とし穴がある──歴史が証明してきたことだ。
「黎、見てみろ。あの若い連中を」
踊が顎をしゃくって促した。水割りを口に含んでから、首を回して後ろを見やる。そう広くない室内の全てのテーブル席に若い活動家がかけている。黎は胸中で俺も若いんだけどな、と切り返したが活動年数を鑑みれば仕方のないことと思えた。
彼らの目は一様であった。革命と明日への希望を湛え、そして何よりもその若さ故の行き場を求めて渦巻く暴力的な感情が滲み出ている。
その中、黎は壁際の奥ばったテーブル席に一人でかけている妙な男の姿を見かけた。砂色の髪と端整な顔立ちはアジア系のそれだが、どことなく異国籍風の雰囲気を漂わせている。
皮製のブルゾンを着込み腕を組んで目を閉じていたが、眠りについている訳ではなく何かしらの思案を巡らしているのが黎には感じ取れた。
「どの程度まで進展しているかは知らんが、上層部に警告しておけ」
「ああ──」
りん────
突然、耳を劈き脳内に突き刺さる鋭い音が響いた。
黎はその音がどこから届いてきたのかすら分からず、咄嗟に耳に掌を押し付けた。
頭の中で乱反射を繰り返し続ける響き。
伴う耐え難い痛みに吐き気がしてきた時、黎の脳裏に一つの記憶が浮かび上がってきた。
遠い闇の奥──誰かがいる。
──これは、夢?
それが鮮明になりかけた所で、鳴り響き始めた時と同様、唐突に音が止んだ。知らぬ間に閉じていた眼をゆっくりと開け、耳から手を放す。
掌が俄かに汗ばんでいる。
あれだけ激しく暴れまわっていた痛みもどこかへ消えていた。
何だったんだ──。
「どうした?」
過剰に反応してしまい、身構えるようにしてカウンターの方へ視線を向けた。踊が怪訝な視線をこっちに向けている。黎は妙に思い、周囲を見回した。室内の様子は先ほどと全く、何も変わっていない。かえって不自然さを感じるほどに。
「……ああ、いや、なんでもない」
足元に転がっていた火がつきっ放しの煙草を拾い上げ、フィルター部分をはたいて再び咥えた。
──聞こえてない?
腕時計の画面に視線を落とし、集結時刻が近付いていることに気付いた。グラスの脇に紙幣を置き、席を立つ。
「皇華によろしくな。無茶をするなと伝えておいてくれ」
「……ああ。終わったら、また来る」
一瞬、踊がそのことについて知っているのかと思ったが、表情には出さなかった。実際、踊の言動はそのままの意味だったようだ。
昨夜に限らず、皇華は以前から身体に変調をきたしていた──。
出口に向かう途中、黎は壁際のテーブルに視線を向けた。
そこに、あの男の姿はなかった。
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