Episode2

 手ぶらで何時間も佇んでいた。
 七月だというのにひどく寒い。赤銅色に染まった空を仰ぎ、時刻が夕刻に差し掛かっていることにようやく気付いて周囲を見回した。
 ──誰もいない。

 何故、涙というものが出てこないのだろうか。
 簡単に流せるものではないのか。

 みんな泣いてた。
 みんな泣いてた。
 皇華だって。何故だ。この暗く湿った大地の下に入れられた棺の中には遺品が詰め込まれているだけで、母の身体がないと分かっているからなのか。
 遠く離れた異国の地で命を散らせ、そこで朽ち果てたからなのか。

 そんなの誰だって知ってる。

 そうしたくても、できないとかじゃない。自然なそれは、確かに感じている。だが、ここに崩れ、感情を溢れさせてしまおうなどという思いは────、ない。

 ──ひたすらに憎悪が渦巻いていた。俺の心の底で。

 母の墓前で膝を折り、誓った。

 この時だった。
 彼らと同じ人間、、、、であることを、止めたのは。

                          *

 足元にひんやりとした空気が流れる通路に立っていた。背の高い書棚が両脇に並び、前後へ無尽に延びている。
 とりあえず足が向いていた方向へ歩き始めた。
 保管されている書物の題目はほとんど見覚えがなかったが、その内何冊か記憶の中にある著書が途中に納められていた。それらは全て、戦争が終わって久しい現在でも禁書扱いになっている存在してはならないものだった。その事実から、この書庫らしき空間に保存されている膨大な量の書物はそういった類のものなのだと思い当たった。
 適当に一冊、本を抜き取って開いてみた。
 ──やはり相当に古い。
 自分の知らない異国の言葉で文章が綴られているが、端々で読み取ることのできる当時の年代らしき数字がそのままの意味を表しているとしたら、それは数百年以上も昔ということになる。

 全ての禁書同様、この世界に存在してはならない空間──。

 自分の他に誰もいないと確たる根拠もなく思っていたが、不意に誰かがいる気配を感じて顔を通路の奥へ向けた。書棚が構築する闇へと繋がる果てない通路の先、視認できないはずの終着に、気配の主の姿があった。
 何かが意識の深遠から湧き上がり、読みかけていた書物をその場に放り出して駆け出した。
 背筋に耐え難い悪寒が走った。床を流れ続けていた大気が急速に足を凍えさせるほどの冷気へと変貌したからではない。走りながら背後を振り返ると顔のない人の形をしたものが静かに、しかし猛然と迫ってきていた。
 全身が水に浸かっているかのように身体が思うように前に進まない。徐々に揺らぎ始める視界。

 意識が、途切れかけている──?

 書庫の奥で、自分に背を向けて身を屈めている人影。女だ。見事な艶やかさを宿した黒髪を見咎めて、強烈な既視感を憶えた。

「    ?」

 発したはずの声が自分の耳にすら届かなかった。まるで見えない膜に吸い込まれているかのように。何度叫んでも同じ。
 ぬるりとした不快感を催す感触が腰の辺りにまとわりつく。慌てて腕を振り回し追いついた黒い人形を引きはがすが、それらは細切れになっただけで瞬く間に元の形に戻った。
 こちらの気配に気付いたのか、女が振り向いた。

 苦しんでいる──? いや、笑っている──?

「           」

 唐突に暗くなりはじめた世界の中で、鮮明に浮かび上がる女の顔。

「        」

 ──それは彼女ではなく、

 彼女の顔をしていて、

 しかし、彼女の姿をした、

 彼女の皮を被っているだけの、

 全く別の、誰か──







 ぶつっ── 












































 右側頭部に鋭い痛みを感じて黎は目を覚ました。右手を当てながら身体を起こし意識を自覚する。それと同時に痛みはすう、とどこかへ去っていった。
 ──なんだったんだ。
 何か遠い昔の夢のようなものを見ていたような気がするが、全く思い出すことができない。
 余計な思考を隅へ追いやるために短くかぶりを振り、枕元に置いておいた煙草のパックから一本取り出して火を付けた。
 口の端で煙草を咥えながら着けっぱなしだった腕時計をのぞき込む。一時間も経てば夜が明ける時刻を指していた。仮眠のつもりはなかったんだが──。
 横に違和感を感じて視線を向ける。隣で静かな寝息を立てていたはずの皇華の姿がなかった。シーツに手を触れてみた。まだ温かい。
 室内を見回すと、ブラインドを上げた窓の傍で外から差し込む青白い明かりを浴びている皇華の姿があった。深く吸い込んだ紫煙を吐き出し、煙草を灰皿に押し付けてから立ち上がって彼女に歩み寄る。
 東の空が俄かに白み始めていた。
 街はまだ眠っている。卒塔婆の群のように生える摩天楼が静かに佇んでいる。
 窓辺の、書類が無造作に積み重なったテーブルの上に、空の硝子コップと錠剤の詰まった瓶が置いてあった。
「……黎」皇華のぼんやりとした視線は外に向いたままだが、口許には薄い笑みが浮かんでいた。
「始まるね──」
 短く、ああ、と答えた。
 彼女のその言葉は自分が解釈した通りで正しいはずなのに、何かの矛盾を──、いや、全く別の意図を孕んだ言葉のように聞こえた。









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