Episode1

 

 今夜の会合は思ったより長引きそうだった。
 本来ならば、各区に配置済みの実行部隊との定時連絡と最終確認で早々に解散となるはずだったのだ。それが軍警察に行動情報の一部が漏洩し、今後の作戦の軌道修正を急遽行わねばならなくなっている。性質の悪いことに、不測の事態に備えて準備していた対応策も白紙に戻ってしまった。
 有効な打開策が中々提案されないまま時刻は今日を終えようとしていた。
 光源の絞られた心もとない電灯の下で、マーカーで乱暴に印が書き込まれた地図と書類を囲みながら議論を交わし続けている幹部達の姿を視界の隅に捉えたまま、黎は煙草を咥えた。鷹の刻印が彫り込まれたオイルライターで先端に紅点を灯し、肺腑に深く吸い込んだ紫煙を天井を仰いで吐き出す。手元で抜き身のシースナイフを弄くりながら、黎は壁際の木製机に腰掛けて議論の内容に耳を傾けていた。
「──東区をどうする。対岸の地下道入口が封鎖されてるぞ」
「偽装船団を大煉湾から運河に向けて出航させた。その隙に北東部本隊と合流し、中央部に渡ってもらう」
「北東部本隊と連絡を取って所定集結点に待機させろ」
 信憑性の程度が推し量れない膨大な量の情報が錯綜する中、徐々に軌道修正──というよりも、全面的な改変を施した作戦の一部がようやく組み上がりつつある。
 三本目の煙草の中ほどまで火が燃え進んだ頃にようやく、今作戦の正否を左右する最も重要な部分に議題がさしかかった。
 外周都市区と中央街区を繋ぐ主な交通手段として、運河には六箇所に渡って大鉄橋が架けられている。
 三日後の総決起集会が行われる間、軍警察の全面介入を阻止する為には大鉄橋をすべて通行不能にした上で中央街区を一時隔離状態にする必要があった。
 最も手っ取り早い手段は、大運河に完全に沈めてしまうことである。この手段については以前から手段の一つとして議論されていたが、あくまで可能性の話でしかなかった。現状を維持するとすれば、大鉄橋各部に重バリケードを展開するということになる──が、それはあまり効率のよい作戦ではないことは誰の目にも明らかだった。
 つまり、大鉄橋の案件に関しても大幅な修正を加えねばならないということである。
 若い幹部達の意見が全く収拾を見せる気配のないまま時間は過ぎ、黎が腕時計をのぞき込んだ時にはその議題が上ってから二時間が過ぎようとしていた。残り少なくなった煙草を口許に運んでオイルライターの納まった懐をまさぐっていると、会合が始まった時から向かいの階段脇の机に向って作業をしていた女が立ち上がり、発展性のある意見が出せていなかった幹部連の輪に加わった。
 鋭い意志を孕んだ切れ長の眼がテーブルを囲んでいる幹部連の顔を一瞥し、その視線を受けて彼女の方向に全員の意識が集中した。
 彼女は軽く頷く。女性にしては短すぎる感のある艶やかな黒髪がさらりと揺れた。
「重バリケード展開作業は現時刻をもって破棄」 「というと──、」誰かがそこまで言いかかり、その先は彼女自身が紡いだ。
「大鉄橋爆破を実行する。東、北東、北、北西、西、南、各地区に配備した部隊から要員を各自選出、少数部隊を再編制して」
「東部地下道の対処は?」薄い顎髭を生やした彫りの深い中年幹部がマーカーで地図に線を引きながら訊く。
「無論、然るべき処置を施す。先日管轄下に置いた水位管理地下防水隔壁機構の東区該当隔壁を開放、破壊した鉄橋の残骸で第一層通路を遮断、封鎖。他地区の防水隔壁も同時に開放する」
 防水隔壁機構というのは、人工的に開発された大運河全域の基底部に構築された水位管理用貯水システムの一つである。通常時、暫定的に地下道として使用されることもある第一層の天井部分に当たる為、そう呼称される場合が多い。
 地図に次々と情報が書き込まれ、瞬く間に精巧な作戦詳細が組み立てられていく。作業の速度が劇的に飛躍している。皇華の淀みない口調による指示に、この部屋にいる全員が引き込まれていた。
 皇華は他の軌道修正案については彼らがどうにか完成させるということを先読み、当初から大鉄橋爆破の過程修正に専念していたのだろう。黎は口許を軽く歪めた。
「……ちょっと待ってくれ。確かにそれで軍警察本隊の全面介入はほぼ阻止することができるだろう。だが、内部に駐留している奴らをどうするんだ」
「作戦実行までに包囲して処理するしかない。中央内駐部隊の所在と規模は把握しているでしょう」
「決起集会そのものが、作戦終了までは存在しないんだ。これ以上、情報漏洩の危険を冒すのは支持できないぞ」
 先ほどの中年幹部が冷静に意見を述べると、他の若い幹部達も戸惑いながらも同調する。彼らの意思を納得させるには少しばかり用意が不足しているらしい。その時、彼女の濃い茶褐色の眼と視線が重なった。
 黎は胸中で浅く吐息すると吸殻を足元の溝に捨てた。右手首を返して弄くっていたナイフを机に突き立て、腰を上げる。
 電灯の下に歩み寄り、小さく「通してくれ」と声をかけて地図を確認できる位置まで進む。広げられている東部防水隔壁機構の見取り図を眺め、さっと思案を巡らす。
「皇華、他の見取り図を」
 名前を呼ばれると彼女は無言で頷き、手に持っていたファイルから数枚の図面を取り出した。
「──対応策は、一応ある」黎は始めに短く前置きすると、マーカーを手にとっておもむろに線を引き始めた。それが何を意味しているのか理解しかねる面々が一様に困惑の表情を浮かべる。
「これは、公式の地図には一切記載されていない非常時用の避難路だ」
「そんなものがあるのか?」
「ああ。三十年前に地図から削除されてるが、今も現存している」
 その言葉を聞いて、全員が何かを思い出したような顔になった。
「陽動部隊を使って中央内駐部隊を地下水道に引き込んだ後、防水隔壁を開放させる」
「部隊をこの非難経路から脱出させる、と……出来るのか?」
「出来なければ、決起集会は頓挫する」
 黎は抑揚のない声で言い切った。顎髭の幹部が思案するように眼を伏せていたが、やがて「それしかないのだろうな」と首肯した。「要員は?」
「全部隊から適任者を、地上実行部隊と同様少数編制しろ」
 もう誰も意見を出す者はいなかった。黎は自身に集中している敬服の意識を受け止め、言葉を発した。
「上層部への作戦修正案の提出は、皇華に任せる。お前がいなかったら、この作戦自体成立し得ていなかったろうからな」
 それから便宜的に解散の号令をかけ、会合に参席した者達はそれぞれ動き始めた。その中で、幾人かの幹部達が書類を整理していた皇華に労いの言葉をかけていくのを黎は聞いていた。
 それでよかった。自分は本来、表に顔を出すような柄ではない。だから黎は、皇華の面子を立てる為、彼女に上層部への報告を頼んだのだった。
 先ほどまで腰掛けていた壁際の木製机に歩み寄り、垂直に突き刺さっていたナイフの柄を握る。ナイフの影に小さな蜘蛛が一匹隠れていた。
 自分はこいつだな──
 影に潜む者だ。黎は自分の立ち位置のあり方をそういうふうに捉え、何だかあまりにそれがしっくり来たので、思わず口許を歪めて笑んだ。
「兄さん」
 表情を引き締めなおし、腰の鞘にナイフを仕舞いこみながら振り返る。身支度を済ませた皇華が階段の踊り場に立っていた。暗灰色のジャケットを着込み、誰も居なくなった室内を見回してから彼女のもとへ歩み寄る。
「ありがと」
「俺達は同志だ。当然だろ」
 自分の鎖骨辺りの高さにある頭を優しく撫でてやると、彼女は仄かに顔を赤らめた。
「帰るか」「うん」
 石階段を上って地上に出ると同時に横合いから風が吹きつけて来た。夏と冬の境目。そろそろ冷たくなってきた。閑散とした貧民街の通りをしばらく皇華と並んで歩き、廃ビルが無造作に建ち並ぶ複雑な裏路地に入ってさらに階段を上がっていく。
 最後に人一人が通れるくらいの狭い通路を上がりきった。
 同時に溢れる光。
 夜をはね除ける多彩色の光に彩られ、超高層ビルの群が林立する都市。
 黎は跨道橋の欄干に近付き、最後の煙草を咥えて火をつけた。
 この街の名は東京中華街。五十年前の大戦後、大陸から移住してきた難民達が激動の時代を生き残っていく為に興した街である。首都圏において唯一独自の行政権を所有し、特別行政区として政府から承認されている。
 戦後類を見ないほどの栄華を誇り、幻夜城市という名で海外にまで広くその存在を知られていながら、今この街は変革を必要としていた。
「防水隔壁の事、何で知ってたの?」
 皇華が幻夜城市の夜景を眺めながらぽつりと呟くようにして言った。黎はゆるゆると流れる生温かい風に紫煙を流しながら表情を変えずに答える。
「昔、親父が教えてくれたんだ。ほんの小さなガキの頃にな、お前はまだ生まれてなかったよ」
 そうなんだ、と彼女は口許を緩めた。
 父はフリーの日本人技術者として幻夜城市の勃興に携わり、大運河建設にも計画の中心で尽力した人物だった。その際に多くの作業用通路が地下に展開され、殆どは大運河の完成後破棄、地図上から削除されていった。昔、何かの機会で地下防水隔壁機構に赴いた時に黎は父と共にそこの一部を通ったことを憶えていたのだ。大鉄橋爆破という案件が出始めた頃から黎はそれがいつか役に立つ時がくるかもしれないと予測し、独自に地下防水隔壁機構の内部探査を進めていた。
 かつて父が作り上げたものをその子供達が破壊するとは皮肉な話だが、今ではそれも仕方のないことだと割り切るしかなかった。
 黎と皇華の父は五年前に死んでいる。母も。父親の方は消息を絶ったという方が正確だが。軍警察の隊員として大陸政策に従事し、中国大陸で戦死した母の遺体を求めて大陸に渡り、その後一切の消息を絶った。
 それから黎は、実妹の皇華と一緒にここまで生きてきた。あの頃を思い出すと、すこし胸が苦しくなる。
 ──あの時から、何もかもが始まったのだから。
「……兄さんには、適わないよ」皇華が唐突に言った。「あの作戦、兄さんの中では始めから完成してたんでしょう。どうして、全部私に任せようとするの──私一人じゃ、最後まで出来なかった」
 黎は短くなった吸殻を欄干に押し付け、指で弾いた。
「──これから、大きな時代のうねりがやってくる。この街はそれを乗り越えなければならない。そこに必要なのは、俺のような人間じゃないんだ」
「……どういうこと?」
「……お前の言葉一つ一つは、この街の人達の心を引きつけ捉えて放さない魅力を持っている。それは、精緻な作戦を立てられるだけの才能よりも、これからよほど必要とされるものだ。俺にはそれがない。だったら俺は、それがある奴の影で充分だ、と思うだけさ」
 彼女にはその言葉を理解することはまだ難しいだろう。人から指摘されて気付くものも、最終的には自身がその存在を認めなければ意味などない。今はただ、黎がそういう立ち位置にあるということだけを分かってくれていればいい。
 しばらくの空白の後、黎と皇華は唇を重ねた。
「帰ろう、俺達の家に」
 頷く皇華の手を取って、足を進める。しばらく進んでから唐突に手が引かれ、皇華が立ち止まったことに黎は気付いた。振り返ると、彼女が頭を抑えて表情を苦しそうに歪めていた。
 黎が言葉をかける前に皇華は、はっと面を上げた。
「大丈夫、帰ろう……」
 抑えていた手を放し、傍に寄ってくる。
 黎は自分の着ていたジャケットを皇華にかけてやり、それから帰路に着いた。







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