Episode8

 

 頬の傍で大気が裂け、頚部を狙って白閃が疾る。軽く上半身を反って避けると間髪入れず、地を這う蛇のような殺意が冷気の沈殿した足元へ滑り込んできた。一歩後退した先に、既に回り込んでいる別の獰猛な殺意を察知し、その場の大理石を強く蹴り付けて後方へ低く跳躍する。獲物の華奢な足首を捕え損ねた白銀の毒蛇が再び牙を向いて予測着地点へ追い縋る。
 白閃が描くその軌道の煌きを肉眼で捕捉し、接地の瞬間に先行して肉厚の強襲ナイフを垂直に突き立てた──が、大理石に磔にしたかに見えた白閃は、こちらの挙動を事前の予備動作から予測し、直前にその身を引いていた。
 重い残響音が回廊内の冷え切った大気を伝播していく。
 レイは胸中で軽く舌打ちした。折った膝を伸ばして立ち上がり、回廊の先に佇む使役者──高原美津加と相対する。
 淡い月光を浴びて顕在化した白閃が彼女の周囲で無軌道に蠢き、使役者である彼女を守護している。
 鋼化フィラメント──、面倒なモノだな。今までに同様の得物を用いた人間と殺意を交えた経験が、レイには幾度かあった。一ミリ以下の細さにまで研磨された鋼線は、生身の生物であろうと鋼鉄であろうと明確な殺意を持って触れた物を容易に斬り裂く。しかし、それらが使役者の要望に応え得るかどうかは本人の技量に依る処が非常に大きく、逆に言えば、だからこそレイがこれまでに対峙してきたそれらの使い手はその殆どが相当の手練れであった。
 数十秒しか経過していないが、高原美津加はその幾人かの中でも飛び抜けて洗練された技量をもつ事が一連の攻防から感じ取れる。極細のフィラメントをたったの一本、操るだけでも相当の研鑽を要するにも関わらず彼女はそれを同時に、しかも片手の指の数だけ使役している。そればかりか有効殺傷域が回廊半域を包括するほどに広く、彼女の懐に飛び込むには少々の覚悟が必要だろうと、レイは彼女の鋭い眸を直視しながら思考を巡らした。
「──惜しいものね」
 蠢く白閃の内の一つを愛でるように撫でながら、高原美津加は静かに呟く。
 不意に、その一本を除いた残りの白閃が彼女の周囲から展開した。レイは正確に反応し、動いた。ほぼ全方位から襲い来る殺意を周囲に展開した拡散意識で感じ取り、最小限の挙動でそれら全てを回避しながら彼女の間合いに大きく踏み込んでいく。後退という選択肢は最初から捨てていた。有効殺傷域が異常に広く、その領域全てが使役者にとって最良の戦術範囲であるのなら、後退という手段は自らの首を絞める事と同義である。
「貴方は違う。此処で、退いてほしいものだわ」
 そう言う高原美津加は明らかに状況を楽しんでいるようで、口許を歪めて薄い笑みを浮かべてみせる。眼球を削ぎ取るべく視界外から伸びてきた殺意を捕捉し、頭を下げて紙一重でやり過ごす。
「今夜を境に、我々は大きく動く──貴方のような活動家なら、この意味が解るでしょう。その中で、貴方は我々のこれからに大きく貢献してくれる」
 彼女の間合いへさらに踏み込み、レイは自身の有効殺傷域に彼女を捕捉した。
「左派連の意向は今夜も、これからも関係ない」
「どこまでも忠実なのね……」
 彼女を守護している白閃は感知できる限りでひとつ、レイは一切の逡巡なく動いた。頚部の一点のみを狙って彼女の懐へ深く入り込み──、
 背後から明らかな殺意が覆い被さった。咄嗟に踏み止まり、至近距離で視線が交錯した彼女の脇を抜け、その背後は上方へ跳躍する。その最中に身を翻し、既に肉薄していた白閃を目視した上で、牽制用の投擲ナイフを右袖口から抜き放った。顔を逸らして鼻先寸分で白閃をやり過ごす。慣性に従って回転する最中、激しく流動する視界の中に高原美津加の姿を──、
「!──」
 寸秒前に放った投擲ナイフの刃先が眼前に迫っていた。左眼に目掛けて飛来してきた自身の得物の柄を掴み、それから天井付近の梁を足場に降り立った。
(面白い女じゃないか……)
 そう、レイは素直に感嘆した。自身がそうしているように常にこちらの挙動を不可視の殺意を感じ取る事で予測し、それに従って瞬時に最良の行動を取ってみせる。こちらの視界が逸れたその僅かな隙に、投擲ナイフの軌道を白閃で強引に捻じ曲げて突き返してくるとは。 「貴方は、この国の為に戦っているのではなくて?」
 丁寧に返却されてきた投擲ナイフを右袖の中へ戻る傍ら、
「どうだろうな……」
「……“あの騒乱”に参戦していたのなら、今の貴方は何故、どちらにも与さないのかしら」
 ちょっとしたからかいの意を内包した笑みを高原美津加が浮かべる。
「時代の節目の価値を、その年季で推し量る事など出来はしない」
 少なくともレイには、あの戦争を戦い抜いた要因と現在の騒乱に関与している動機に、彼女が思っているような関連性はない。
「無論。でも、これは私達の生きる時代が選んだ事なのよ。──ヴェルヘンスタイン条約もその一貫だったのだから」
「血盟条約か……」
 レイの言葉を冷静に受け止めながら、その上でレイ自身の立ち位置が気に入らないという意図を言外に彼女は示唆してきた。
 ──あの騒乱、か。先ほどの彼女の言葉を心の中で反芻する。その台詞を発した高原美津加にとっては、本人が経てきた年月相応の表現だったのだろうが、レイにとってはあの時の記憶は、それほど古い物ではなかった。
 二〇二七年、十三年前の話だ。世界規模での民族対立と資源戦争に端を発したあの戦争──第二次ユーラシア騒乱の渦中で当時の高原美津加の姿を垣間見た時の事を、脳裏に思い出した。
 あの頃の彼女は、理想の実現というその若々しさに相応しい激しく猛った意思を漲らせていた。
 丁度その頃だったのだ、高原財閥内で企業グループの経営方針を巡って内紛が起き、親族内に少なくない死傷者が出たのは。高原真由美の双子の姉もまた、その内紛の煽りを受けて失命した。そのはずだった。クライアントの高原絢香もそう口にしていた。
 だが、彼女は──高原美津加は生きていたのだ。自分の死を偽装し、武力衝突の火種が燻る西アジアへと逃れていた。高原財閥傘下の民間軍事企業体、シーグフリード・ヘッドは国際傭兵軍に兵力を供出し、西アジアへ投入していた。おそらく、その中に紛れていたのだろう。
 二つに別たれた高原財閥を再び統一し、停滞しきったこの国を転覆させられるだけの力を蓄える為に、彼女は中東へ渡った。
 レイが高原美津加の素性に行き着いたのは、つい数時間前の最高幹部協議の際だった。彼女のあの眼は十三年前と何ら変わらない、ある種の兇暴とも言うべき意思を宿していた。
 そう、あの頃だ……
 レイは眼下の高原美津加と相対しながら、巡らせていた意識を引き戻した。その変化に気付いたのか、高原美津加は浅く嘆息する。
「──仕方ないわね、それが貴方の立ち位置だというのなら。私達の、我々の為に、この国の為に──死んでいけ」
「俺は、俺の本分を全うする。それだけだ」
 その言葉を契機に、背後から複数の白閃が現れた。五体を切断される刹那、その攻囲網に僅かな殺意の隙間を見つけ、そこから離脱する。寸秒前までレイの佇んでいた場所の冷気を、鋭利な殺意が細切れに切り刻んだ。
 回廊の側壁を足場に踏みつけて地上にまで降下し間髪入れず跳躍、全身に絡みつこうと頭上から猛追してきた白閃を背後にやり過ごし、一歩で高原美津加の間合いに侵入、懐に飛び込む。
 しかし、レイは最初から得物の刃を上げる事なく再び壁に向かって彼女の間合いから離脱した。常に彼女を守護している白閃が障害になった訳ではない──レイの不可解な挙動につられた彼女は、再度、今度は向かいの梁への離脱を図っているレイの背中を追って攻勢用のすべてのフィラメントを走らせた。
 かかった──
 拡散意識の中で、レイは背後に迫る殺意のそれぞれの位置を正確に把握する。拡散意識を研ぎ澄ませていなければ感じ得ぬ程の微弱な殺意の乱れを察知し、口許を小さく歪めた。梁下部の接合部分付近の側壁を蹴りつけ、唐突に進行方向を変える。追撃してきていた白線が軌道修正に遅れを取り、梁の接合部分を大きく斬り裂いた。梁の石片が大理石の床に崩れ落ち、重い音を立てる。  レイはその梁をさらに素通りし、さらに上方の、照明の落ちたシャンデリアの上へ降り立った。シャンデリアの巨体が大きく揺れ、豪奢な装飾物がぶつかり合って耳障りな残響音を奏でる。
「どういうつもりなのかしらね?」
「──こういうつもりだ」
 レイは静かに、しかし確固たる意思をもって宣告──そして、シャンデリアと天井を繋ぐケーブルを強襲ナイフで立ち切った。その巨体が慣性のままに宙へ投げ出され、下方の梁に向かって落下を開始する。梁下層部に無数の亀裂が走っているのを視界に捉え、両者が衝突する瞬間、レイはシャンデリアの上から離れた。重金属と硝子が拉げて梁を強引に押し崩し、無数の砕片が天井付近から高原美津加の佇む場所に向かって降り注ぐ。
 離れた場所に降下する最中、上を見上げる高原美津加の視線の先で幾筋もの殺意が無慈悲に疾るのが見えた。
 ずん──……
 視界を塞ぐ程の白い噴煙が立ち昇り、それらが収まるのを待たずしてレイは着地から間断なくそこへ飛び込んだ。強襲用の肉厚のナイフを両手に構え、視覚の利かない乳白色の世界を走る。見えなくとも、進むことはできる。
 白く染まった視界の先で、使役者を守護する殺意の威圧を受けてさらに前へ──
 互いの殺意が明らかに交錯した瞬間、閉ざされた視界の奥から一筋の白閃が疾り、そのさらに先に彼女──こちらの姿を捉えた高原美津加の半身が現れた。
 それと同時に無数の殺意が動き、レイの周囲へ展開する。その中を、レイは表情を変えることなく突き抜けた。

 どっ……

 ──どれほどの時間が経過してからだろうか。体感的には十数秒、実際は数秒程度過ぎてから、視界に満ちていた噴煙が静かに沈殿し始める。白い砂塵が大理石の床に振り落ち、再び静寂を取り戻した回廊の全貌が浮かび上がってくる。バルコニーの窓から注ぐ淡い月光が回廊を照らし、その光を受けて床に薄く積もった砂塵が控えめに煌く。
「──眠れ、高原美津加」
「ここまで、か……」
 両手に構えた強襲ナイフの刀身は高原美津加の胸部──心臓部を過たず貫き、彼女の背中まで突き出ていた。刀身を鮮血が伝い、柄に至った所で床へ滴り落ちていく。
「ねえ、貴方は──」
 心臓部を深く貫き致命傷を与えた刃を抜き取り、後方へ飛び退く。残った傷口から噴出した鮮血で霞む視界の向こう側で、高原美津加が目を見開いてレイの姿を見つめていた。口許に薄い笑みを浮かべながら。
 杖に身体を預ける力すらなくなったのか、高原美津加はごと、と重い音を立てて膝を折り、床に斃れた。
 ナイフに付着した血糊を振り払い、腰元の鞘に収める。
「かすったな……」
 空いている方の手を左頬に伸ばすと、ぬるりとした生温かい赤い液体が指先にまとわりついた。痛みは浅いが、出血量からみて、存外深く削られたようだ。まあ、仕事に支障はない程度のものだとレイは即座に痛覚を遮断し、意識から追い出した。
 機能を完全に停止した心臓部から流れた血が生み出した赤の泉に、高原美津加が静かに沈んでいく。  使役者の血に濡れた白閃が、ようやくその全貌を現した。使役者の死後尚、彼女を守護しようとしたかのように血の泉の中で彼女を纏い込んでいる。
 ようやく死んだ、か……
 死体になっても戦場を這いずり回ってきた、彼女らしい最期。
 コートに付着した埃を叩き、再び静寂の戻った回廊を渡っていく。本棟とは遠く独立した建築物である為、先ほどの梁の崩壊音に警備システムが反応した様子はない。その事が分かり切っていたからこそ、大胆な行動に出ることができた。
 回廊を渡りきり、回廊の終点である豪奢な建てつけの扉の前に立つ。レイはすぐに小さな異変に気付いた。扉の脇の生体認証システムが機能していない。
 開いている──。
 レイは扉の取っ手に手をかけてから、回廊を振り返った。
「本当に、分かっていたんだな……」
 冷暗とした世界に注ぐ月光と血だまりの中で眠りにつく彼女は最早、どこにでもある打ち棄てられた死体のひとつでしかない。
 なんとなく、大した意味もなく、レイは瞼を一時閉じてから扉を潜った。

 扉を潜った先は照明が落ちていた。奥の閉められたカーテンの隙間から、僅かに漏れる月明かりの線のみが空間を横切って伸びる部屋。
 どこかで見たような膨大な量の書物が壁際の書棚に整然と並び、そこから溢れ出た書物が床に積み上げられている。クライアントの高原麻由美の書斎とどこか似た雰囲気を漂わせている部屋だった。
「──……」
 部屋に巡らしていた視線を奥の左側に向けると、天蓋付きのベッドが設えてあるのが視界に映った。その傍におかれた機器類の発する無機質な電子音が、等間隔を空けて遠慮がちに部屋に響いている。
 レイは脇から最後の仕事を終える為に予め準備しておいたナイフを抜くと、部屋の中を静かに進んでベッドの傍に立った。
 下ろした視線の先に、女性であろう人間が伏せている。顔面の大半と両腕、首元……掛け布団に隠れていない部分の彼女の身体の殆どが包帯に覆われていた。ひどくやせこけた頬が、彼女が深い眠りについて久しい事を示し、唯一まともな右眼は堅く閉ざされている。
 ずっと眠ったままだったか……
 高原麻由美──
 二ヶ月前の第二八解放区成立前夜、高原財閥の賢人達と高原絢香が差し向けた強襲部隊による攻勢から高原麻由美は生き延びたが、それは大きな代償を伴った。いつ目覚めるとも知れぬ重傷という代償。
 高原美津加は彼女を護った。自らも深い傷を負いながら。
 だから高原美津加は、彼女になる事にしたのだろう。彼女の影としてではなく、一族再統一を果たした後の高原家の次期当主となるであろう高原麻由美として。
 既に首都圏動乱の舞台を去った高原美津加と、"全く同じ顔をした女性"が今、眼下で二ヶ月前から眠りについている。
 傍に置かれた機器類の中に、生命維持装置などの類のものは見当たらない。ただ、彼女は自ら深い眠りについているだけのように見えた。まるで、十三年前から繰り返してきた謀略の巣から解き放たれたかのように。或いは、それから逃げ続けようとしているかのように。
 高原美津加の書斎で見かけたあの写真──双じ貌を持ち、眼に相反する意識を宿して生きてきた二人。
「ずっと、休んでいたいのか……?」
 少しの間だけ目を閉じた。レイは意識のどこかで、昔日のどこかを思い出していた。高原美津加は自らの思想の為に第二次ユーラシア騒乱から中東騒乱の混沌期を生き抜いて日本に戻り、そして殉じた。高原麻由美は十年以上の族内闘争の果てに重症を負い、眠りについた。高原絢香は"姉妹"の中でただ一人、走り続ける事の迷いを心の奥に閉じ込め、仮面をかぶって生きてきた。それだけで、それだけだ。
 彼女達が生き方の起源を共にしていたとしても、レイとは何の関係もない。
 レイは意識を引き戻し、ゆっくりと瞼を上げた。
 その僅かな間の事だった。
 高原麻由美の開かれた右眼が、レイの光の宿っていない双眸を見つめていた。何か弱々しい眼差し、しかし、すべてを一瞬にして悟ったかのような視線。
 しばらくして彼女の視線が動き、レイの双眸から左手に握り締めた刃、自身の包帯に覆われた腕、天井、カーテンの隙間からのぞく月光……そして最後に、ベッドの反対側のテーブルに置かれた物へ行き着いた。
 レイは彼女の視線が行き着いた所へ、静かに眼を向ける。
 レンズに亀裂の入った眼鏡が一つ。それと、著者名の見当たらない思想書と思しき書物がその傍に一冊。
「……──」
 高原麻由美は文字通り真白な腕を上げ、テーブルの上の書物に視線をとどめて表紙に触れ、それから眼鏡を手に取った。そのまま腕を戻して、それだけの為に精一杯の力を使っているのだろう、腕を小刻みに震わせながら、壊れた眼鏡をかけた。
 眼鏡の映し出す世界越しに彼女が脇に佇むレイを見つめなおす。それから虚空に視線を漂わせる。
 レイはナイフを握った左腕を動かした。
 言葉にならないほどに小さく、しかし、彼女は確かに何かを呟き──
 それから──




                          *


 グレーシェルは初動の予備動作を省き、走った。大きく湾曲した異形の得物を携える標的を視界に捉えながら背後に回り込み、袈裟懸けに刃を振り下ろす。
 金属同士が擦れ合う不快な音が響いた。
「へえ……」
 中々いい反応をするものだと、胸中で素直に感嘆した。口許をマフラーで覆い無感情を装う能面のような男は攻勢動作を正確に追跡し、自らの背後に得物を割り込ませて袈裟懸けを防いで見せた。
 どうやら、中庭で先ほど交戦した者達とは違うらしい。さすが、古参の帰還兵と言うべきだろうか。
 男は流し目を背後に向けてグレーシェルと視線を交わすと、湾曲した刃の特性を生かして挟み込むようにこちらの得物を抑え込みながら緩慢ともいえる動作で動いた。背後に斬りかかっていた刃の下から抜け出すと同時に異形の得物を振り返り様にグレーシェルの頚部を狙いすまして振り払う。
 視界の右手から滑り込んできたその反攻を正面から目視することもなく、身を素早く引いてやり過ごした。肉厚の得物から生まれた風圧と殺意が頚部を撫で、ちり、と焦げ付くような感じ慣れた感覚を覚えた。
 反攻に転じた男は止まることなくすぐ様、次の動作に移った。空いた左手で大腿のホルスターから四五口径の自動拳銃を抜き、得物の間合いの外へ離れたグレーシェルに銃口を向け間断なく引き金を引いた。
 グレーシェルは最初の銃撃を愛刀を振り上げて弾き、幅の広い回廊を生かして移動した。仄暗い回廊の中に在って、男は正確にこちらの軌跡を追随してくる。始めに回り込んだ軌跡の中ほどまで逆走し、残弾の枯渇と共に銃撃が止む頃合いを見通して相手の間合いへ飛び込む。
 一歩踏み込んだ瞬間に飛来した銃弾を斬り払ったのを最後に、案の定銃撃が止まった。
 しかし、見事と言っていいだろう。男は逡巡なく自動拳銃を放り捨て、眼前から迫り来るグレーシェルに相対した。
 下段から振り上げた逆袈裟に対し真っ向から得物を向け、その勢いを緩める事なくこちらの得物を弾き返す。男は器用に得物を逆手に持ち換え、素早く斬り返してきた。
 その挙動に遅れることなくグレーシェルは反応し、後退した。能面のような男は無表情を崩すことなく前衛に踏み出し、体重を余すことなく乗せた得物を構えを小刻みに変えながら振るう。その攻勢を後退しながら避けつつ、僅かな隙を見逃さずに刃を繰り出すが、男もそれに的確に反応し、回避と反攻を一連の動作として切り返してくる。
 大振りな得物故の自らの欠点を攻勢の糸口に繋げてみせるが故に返って隙の少ない動作だ。
 石壁が背後に迫っているのを感じつつ、グレーシェルは同時に何かの違和感を覚えていた。それは既視感と言っていいかもしれない。
(この子……)
 背中が石壁にぶつかる直前に異形の得物を打ち払い、真横にステップを踏んで回廊の中央付近まで離れ──男は遅れることなく動き、こちらに追い縋ってきた。
 疾走の延長上で繰り出されてきた薙ぎ払いを縦に構えた刀身で受け止め、能面と肉薄する。
 視線が交錯した、正にその時だった。聴覚が、異形とは別の得物が蠢く耳障りな音を捉えた。
 自ら刀身を引きその場から一歩動いて射線から離れると同時に、至近距離で雷鳴のような銃声が轟いた。グレーシェルはその場から離脱する事なく留まり、男が右手で新たに抜き払っていた拳銃を視認した。
 銃口がこちらを捉える前に、自らの得物を振り抜いた──。
 回廊に鮮血が散り、それを追うように黒い影が宙を飛ぶ。それをさらに男が追うようにしてグレーシェルの間合いから離脱した。男の足元に、今しがた強襲の銃撃をくれた拳銃を握り締めたままの右腕が転がっている。男は上腕の中ほどから斬り飛ばされた自分の腕をしばし見下ろしていた。痛覚を遮断する心得はあるらしい。
 やがてその視線が腕の残骸から離れ、グレーシェルの方へと向けられる。
 明らかな殺意が、無感情を装っていた彼の双眸の中で揺らめいている。しかし、そこには怒気などの類の感情は介在していない。動乱の夜に息づく者としての、純粋な殺意だ。
(ああ、そっか……)
 先ほどから感じていた既視感にも似た感覚の正体にようやく辿り着いた。胸中で密かに得心した瞬間、視界に黒い何かが飛来した。
 首を反り、男が眼暗ましに蹴り飛ばしてきた腕の残骸を避ける。その影に紛れていた男がグレーシェルの間合いに深く侵入してきていた。低い姿勢で刺突の構えをとり、正面から突っ込んでくる。
 狙いは心臓部。
 異形の得物の刃先を純白のコートに届く際まで引きつけ、そこから刺突を避けた。それは恐らく、男にとって知覚外の速度だっただろう。
 瞬時に無防備な背後へ滑り込み──、
「楽しかったわ」
 間合いの内側深く──グレーシェルは背中から男の心臓を刺し貫いた。
「…………」
 男がぎこちない動きで首を回し、グレーシェルの双眸をのぞき込む。急速に死につつある身体を動かし、痙攣する腕を上げて異形の得物を逆手に持ち直す。
 柄を大きく捻った。男の体内から心臓の潰れる鈍い音が響き、グレーシェルは刃を引き抜くと共に後方へ下がった。男の手から得物が抜け落ち、それに続いて彼の身体がうつ伏せに崩れていく。
 血糊を振り払い、刀身を鞘に収めた。
 ──回廊の奥から感じ慣れた気配がして振り向くと、レイが視線の先にいた。
「……終わったか」
「ええ……。そっちは?」
「問題なかった」
「そう、……レイ、怪我したの?」
 傍まで歩み寄ってきたレイの頬に、袖口で血をこすった跡が残っていた。レイは、思い出したように、「ああ、これ……」と言い、
「俺のじゃない。大丈夫」
 と短く応えた。その応答に何か妙な感覚を覚えたが、実際レイは仕事を済ましこうしてここに帰ってきている。問題はないだろう。
「こいつか?」
「と、中庭に何人か。アンタの言った通りだった」
「……みたいだな」
 袖口で改めて頬を拭い終えた時、レイは何かに気付いたかのように、グレーシェルの傍で斃れている男の頭元にしゃがみ込んだ。
 何が変わったという訳でもない、レイの気配も先までと同じだ。しかし、グレーシェルはレイの内の何かが明らかにさっきまでとは異なっていることをすぐに感じた。
 レイは死体の周りに出来たばかりの血だまりに五指の指先を浸け、男のどこも見ていない双眸を見下ろしている。
「……知ってるの?」
「昔、少しな。それだけさ」
 レイは口許を僅かに歪めてみせ、男の傍に転がっていたあの異形の得物を拾い上げた。
 高原麻由美の双子の姉、高原美津加の姿をレイが見たのは、彼の話によれば十三年前の第二次ユーラシア騒乱時だったらしい。たしかその頃、レイは海外軍事企業体が派兵した国際傭兵部隊に交じって現地入りしていた。
 グレーシェルは当時、数年ほどレイとは別行動を取っていた。共に活動家として暗躍し始める以前の話だ。
 その頃のレイと、この男は何らかの関係を持っていたのだろうとグレーシェルは何となく思った。だが、それ以上の詮索はこの場では止めておくことにした。珍しい話ではないからだ。
「……これで終りだからな」レイはそう、呟いた。
「また、降ってきたわね」
 硝子の粉砕した窓から庭園を見やると、いつの間にか止んでいたはずの雪が再び、静かに降りてきていた。



                    *


 廠の外壁通路に立ち、吹きつける乾いた風で消えないよう燐寸の火を手で包みながら、素早く紙巻煙草の先端に灯りを点す。現地品特有の苦い味のする紫煙を肺腑に満たし、別段味わう訳でもなくゆっくりと吐き出す。
 郊外基地の外に広がる砂漠の向こうで仄かに白み始めた空が、朝が近い事を示していた。眼前の砂漠を横断した先に在る東部国境沿いの都市が第一防衛作戦の拠点だったが、もう陥落している頃合いだろう。東部都市を制圧した連合軍は、今日明日中にここまで進軍してくるはずだ。
 昨夜、国防陸軍の残存部隊が南部都市の攻防戦を制したとはいえ、その被害はあまりにも大きすぎた。損耗し切った南部の残存部隊に、東部国境から合流を図って後退してくる師団を加えても、南部都市を守り切ることはできない。師団に原隊を持つ、首都の外人特殊部隊を含めても結果は変わらない。国土の半分は確実に、連合軍によって奪われる。
 国際企業軍による増派支援が間に合ったとしても、今後北上してくる南部戦線を抑えられなければ、最悪の場合首都も陥落する。
 しばらくは、致命的な戦況を強いられるだろう。
 半年──この国に滞在したが、目的はある意味達したといえる。最早国内に留まる大きな理由は存在しない。早々に首都へ戻り、警備の薄い何処かの国境から東欧へ抜けよう。そこから倫敦へ一度向かい、グレーシェルと連絡をつける必要がある。彼女は彼女で、何らかの成果が得られていればいいが。
 煙草を吹かしながら思案を巡らしていた時だった。
 正面の東部に面した砂漠を横断する荒れた国道を、十数両から編制された車輌隊が砂煙を巻き上げてこちらに向かってくる。
「先発隊か……?」
 廠前の駐車場に停車した車輌隊から数十人の兵士達が降りてくる。先頭に立つ指揮官と思しき兵士が指示を出し、それに従って兵士達は周囲に散開した。指揮官は副官らしき兵士一人連れ立ち、正面の開いた扉から廠内へ入ってくる。外壁通路の欄干に短くなった煙草を押し付け、それを追って静かに廠内へ戻る。内壁通路の支柱の影に紛れて、人気のない一階の空間を横切る指揮官の横顔を垣間見た。
 女か……。若い、まだ小娘と言っても差し支えのない顔立ちだ。だが、双眸から溢れる意思は恐ろしく鋭いものがあった。
 顔つきは東アジア系、アイツの言っていた首都の外人特殊部隊だろうか。
 不意にその女兵士がこちらを振り仰いだが、影に隠れたこちらの姿は見えなかったらしく、再び視線を元に戻して奥へ向かい始めた。
 中々、鋭い勘を持っているらしい。
 アイツがいる奥の部屋の外に副官を待機させ、女は中へ入っていく。それから数分して、アイツを後ろに連れて女は出てきた。だが、何か様子がおかしい。
 そう思った時、アイツが少々大きすぎる声を上げた。
「何のつもりだ」
「繰り返させないで。この基地は即刻破棄、焼却する。痕跡は一切遺せない」
 後ろに振り返った女は日本語を流暢に操り、冷淡な声音で言った。
 日系人か……。確か、首都の外人特殊部隊には、対有事用に海外軍事企業体から人材が編入された部隊があるらしい。アイツの所属している部隊も、そういった側面を持っていた。
 女は副官に何かを指示し、頷いた副官が背を向けて出口へと向かおうとした時、アイツが唐突に腰元のシースに差していた得物を抜き払った。大きく湾曲した異形の得物を女の頚部に押し当てる。
「何のつもり?」
 さすがか、女兵士は別段動じることもなく応対する。その右手には大口径の自動拳銃が既に握られ、銃口がアイツの腹部に触れていた。
 さらに副官が異変に気付いて振り返り、事態を目の当たりにして拳銃を抜いた。
 あの得物は、半年前に自分がアイツに譲ったものだった。大柄な体格のアイツなら、すぐに扱えるようになるだろうと思っていたが、中々小気味良い使いまわしをする。
「ヴェルヘンスタイン条約の定めた有事規定を無視する気か……」
「詭弁ね。そんなもの、障害にすらならない。紙屑みたいな戦争倫理を語って満足できるのは、博愛主義者か人道主義者くらいでしょう」
 嘲りの意を込めた短い笑いを女は付け足し、さらに、
「貴方、死体の為に友軍を危険に晒すつもり? 動かない死体なんて弾除けにもならないわよ。ましてや、さっき見たところでは、貴方が運ぼうとしてるのは軍人でもない」
 ──ここで逆上してあの女の首を斬り飛ばせば、アイツは間違いなく射殺される。最後のあがきを見せる前に、こんな所で自ら死を選んでみせるか?
「あの子は、俺だ。同志達と共に、首都へ運ぶ」
「──死者は口を噤むものよ。なら──」
「俺は、お前を見逃さない」
 重く静かに言い放った。それはある種の狂気とも呼べる感情を内包していたが、確固たる意思を持ったものだった。
 その言葉を耳にした女は一時をおいて、自ら拳銃を下げた。
 副官に銃口を下ろすよう指示し、先ほどの命令を取り下げる。
「貴方、名前は?」
「……修。アンタは? 同じ日本人だろ」
「──美津加。現時点をもって、南部残存部隊は私達、外人特殊部隊の指揮下に入る」
 それを聞き届け、アイツもようやく得物を下ろした。
「貴方は昨晩、ここ南部都市で戦死した。それでいいわね」
「ああ」
「我々は公的には存在しない非公式部隊。この戦争が終わるまで、付き合ってもらうわよ」
「丁度いい」
 次にどのような形で会うかは分からないが、多分、アイツは最後まで戦い通すだろう。確信はないが、そう感じる。
 外壁通路の奥から地上へ下り、離れた車道の脇に停めておいたオフロードバイクに跨る。
 夜明けの光が砂漠を照らし始める前に、南部都市を後にした。







《 ----Top / Episode7 / Epilogue---- 》

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