今件の依頼者である高原財閥右派の筆頭──高原絢香は、この旧邸宅を生家として幼年時代を過ごした。彼女が成人し、企業グループの軍事部門で本格的に経営に関わるようになった後、ここは一族直系の者をはじめとする主要幹部の静養地として改装されたらしい。
月光に当てられて伸びる石柱の陰に溶け込みながら、レイは浅く吐息した。暖めようと口許に近づけた手は、陰の闇の中ではおぼろげな輪郭としてしか捉えられない。自分の吐いた白い息が、眼前を名残惜しげにいつまでもたゆたっているのが分かるほどの冷気が、回廊に沈殿していた。
事前に確認しておいた旧邸宅の資料によると、先のような事情からこの施設には対有事用の警備システムが平時は構築されていない。定例報告会などの際は、高原財閥傘下の警備企業が提供する人員が配備されるものの、それ以外でそのようなものが立ち入る許可は普段与えられていない。それにもとより、存在を公的に知られていない施設なのだから、当然といえば当然である。
形式上の定例報告会が数時間前に閉会し、最高幹部協議の幕間を迎えた夜半過ぎ、レイは特段手を煩うこともなく、邸宅最奥部にまで入り込んだ。
──最高幹部協議が再開するまでの間に仕事は済む。
邸宅最奥部は、財閥直系の関係者のみしか利用できず、三つの棟に分かれている。クライアントの高原絢香は三つに分かれた棟の東棟に書斎を持ち、空室である中央棟を挟んだ西棟は彼女の叔母が使用している。その私室の前に伸びる回廊にレイはいた。
(そろそろ来るか……)
幕間に入り、本棟から別れたグレーシェルは高原絢香と共に東棟の書斎へ向かった。先刻辿り着いた可能性に相違なければ、グレーシェルは自身の役割を果たす。彼女に関してはすくなくとも何ら問題はない。何かが起こるとすれば、それはこちらの方だ……
こん──
西欧様式の高い天井に反響する踵音。刺すように冷たい大気を伝い、その音がレイの聴覚にまで届いた。音は一つ、付き人の存在は確認できない。付き人は本棟の待機室に戻っている。レイは耳を澄まし、十数メートル離れた場所から届く足音が不自然なものである事を確認する。
"第一の標的"はすくなくとも五体満足の状態ではない──間違いない。
──高原
回廊に潜伏する前から気配を絶ち、身を潜ませている石柱の傍をゆるりとした足取りで通り過ぎていく。
交互に響く不自然な足音から、徐々に離れゆく標的との距離を慎重に推し量り……レイは時を見計らって動いた。
独りでに蠢き始めた闇の残滓のように、一片の殺意も何もなく陰から姿を晒し、左の袖口から肉厚の強襲ナイフを抜き払う。回廊のテラスから届く淡い月光によって浮かび上がる灰白色の空間の中を、影の如く走って標的の背後に迫り、不可感の殺意を頚動脈へ──
「どなたかしら?」
……気付かれた? ナイフの肉厚の刃が頚部の皮膚を深く切り裂くその時を見計らったかのように発せられた声。静かに流れ続ける水のような動作の中でレイは、刹那にも満たぬ間だけ停止し、しかし構わず刃を滑らせた。
それとほぼ同時だった。自身のものではない不可視の殺意を自分の頚部に感じ、レイは後方回転気味に床に手をついて跳躍し、仕損じた標的から距離を取った。
「──なんて、ね。そろそろ来る頃合いだと思ってたところよ?」
負傷した左眼を覆う眼帯のズレを直すように右手を動かしながら、杖を頼りに傾いた足取りで彼女は振り返る。
淡い茶褐色の右眼をのぞき込む。そこには、たった今しがた感じた殺意などは欠片ほども宿っていなかった。ふん、あの女同様隠すのが上手い……
高原麻由美の一族内における現在の立場を鑑みれば、彼女を騒乱の舞台から退場させる最後のタイミングとしては、今夜が最後だと言う事くらい彼女自身容易に予測していただろう。
そしてレイは、今夜、こういう事態になることを承知の上で、その領域に自ら踏み込んだ。
「貴方をよこしたのは、あの子?」
レイは応えなかった。透き通った静謐が灰白色の世界を下りる。レイは一切の言葉を発することなく、ただ踏み出す瞬間だけを計っていた。その気配をすら感じさせないように。その時が来れば、寸秒を待たず結果は回廊に晒されるだろう。
左半身に重傷を負っているという身である彼女に、死を避ける術はない──……が、
「……ふうん、面白そうな男?」口許に薄い笑みを浮かべる。「貴方は私がここで死ぬ事を確信している。うん、最後の話し相手としては申し分ないわね──、」
それから一時の間を置き。
彼女は何の前触れもなく殺意を、その傷ついた身体から一挙に膨張させた。
「──絢香だな」
研磨された殺意をレイは正面から受け止めた。頬の皮膚が焦げ付くような感覚を憶える。見え透いた挑発にわざわざ乗る必要はない。ただ、気まぐれ程度の意識の変化は起こしてもいいかもしれないと思った。だからレイは、
「……ああ、アンタの姪だ」
「そう……」
右眼に鋭い殺意を湛えたまま、ふ、と威の抜けた笑みを口許を歪めて浮かべ、それから静かに瞼を下ろした。再び沈黙が回廊を覆う。それを待ってから、彼女は瞼を上げる。
(……──同じ、か)
「貴方は、どちらの人?」「どちらでもない」「そう……」
端から聞く分には答えと捉えられない──実際、それが真実であることに変わりないが──答えを返すレイ。言霊は交わってのみ意味を成すものではない事をレイは理解している。同じく一つの陰のように佇む彼女もまた、それを理解しているのか納得の表情を見せる。
鋭い女だ……このわずかな流れの中で、彼女は自分の事を半分掴んでいる。彼女も似たような立ち位置の存在なのだ。
常に影に溶け込み、独りでに動く闇のような者。
「退いて頂く訳にはいかないかしら」
右手に握ったナイフの構えを変える。
「──そう」
この言霊の交わりが契機だった。
彼女の周囲に、淡い灰青色の月光を帯びた幾筋もの光の殺意が現れ、蠢く。
足を半歩ずらして体勢を整えながら、レイは宣告の為に口を開いた。
「高原麻由美には、今夜で動乱の舞台を降りてもらう。無論、お前もだ──、高原美津加」
光の殺意に守られる中で高原麻由美だった女はわざとらしく眼を閉じる。寸秒の後開かれた眼は、"彼女"だった。
「死人の名前を知ってるなんて、あまりいい趣味じゃないわね。……でも、どうして分かったのかしら?」
「──……アンタの身体に染み込んだ血錆と熱砂の香りが、俺達を呼び寄せたのかもな」
高原美津加は楽しげに笑む。
無数の白閃が疾り、レイは動いた。
*
グレーシェルは他人に気取られないよう意識を周囲へ拡散させながら、邸宅最奥部、東棟の書斎に向かうクライアントの若干後ろを歩いていた。
「──御二人は、親しいのですね?」
出し抜けといってもいいくらいの唐突さで、前を静かに歩いていた高原絢香が言う。それに対して返事を返す必要もなかろうと敢えて沈黙を通したが、彼女はそれこそをグレーシェルの返事と受け取ったように、しばらくしてから言葉を紡ぐ。
「こうして貴方は私に付き、彼は彼一人で向かった」
「仕事よ。関係ないわ」
放っておくとどんどん一人で喋り進めそうな気配がしたので、切り返して正論で正した。そのつもりだったが、クライアントはそれをどう受け取ったのか、ふふ、と満足気に歩調と同じくらい静かに笑っただけだった。
……まあ、言われて否定するものでもない。ただ、親しいという間柄は相応しくない。そんな関係はとうの昔に踏み越えてきている。尤も、自分達の事を断片的にも伝えた所で、彼女がそれを許容できるとは考えていない。それは彼女の理解の範疇に収まりきらないものだろう。
私達のことは、<我々>にしか知られてはならない──。ずっとずっと昔から紡がれてきた下らない不文律だ。
グレーシェルは胸中でため息を付き、懐から煙草を取り出した。銀製のオイルライターの乾いた擦過音が、二人分の足音のみしか聞こえていなかった回廊に響く。
肺腑に深く吸い込んだ紫煙を、白い吐息と共に吐き出す。すう、と眼の覚めるような香りが特徴的な煙草だ。
二口目を味わおうとした時、グレーシェルは拡散していた意識に異質なそれを捉えた。
「……?──……」来た。
研ぎ澄ましていた意識が捕まえたのは、極力抑えられた、しかし、無意識下の内に漏れ出した殺意の雫。
殺意を垂れ流している何者かはこちらの気配にまだ気付いていない。下手に行動を起こす必要はない。どの道、高原絢香が狙われる瞬間はこの先にしかないのだから。
本棟から東棟へ繋がる通路を抜け、私室へ直接繋がる東棟内部の回廊へと踏み込む。
(さて、やるか……)
最高幹部協議の前に通った時は照明が灯っていたが、夜半も過ぎた時刻であるからか、回廊はひどく暗かった。回廊右手の窓から外を見やると、浅く雪が降り積もった庭園が月光を浴びて青白く浮かび上がっている。
「ねえ、彼は──、」
「初撃はかわす。後は……そうね、死なない程度に走って」
高原絢香は疑問の声を上げたが、その次には自分の置かれている立場を悟り口を閉ざした。中々利口な娘ね。
クライアントにとって、高原財閥の面汚しとでも言うべき左派を撲滅し、高原財閥を統一する最後の機会が今夜である。そのために、レイとグレーシェルが動いていた。しかし反対に言えばそれは、左派にとっても同様の案件を考えている可能性が非常に高い事を意味している。
グレーシェルは、左手で刀帯から提げた鞘に触れ、その感覚を確かめた。これまで幾多の死線を駆け抜けてきた片刃の愛刀がそこ──コートの裏側に収まっている。銘を持たず、しかし、グレーシェルと共に長い時間を過ごしてきたものである。
角を曲がり、回廊奥にある私室の扉が視界に入った。右手の窓と窓の間の壁に作られた影へグレーシェルと高原絢香の身体が溶け込む。次、か──
半歩、前を歩く高原絢香が影から足を踏み出した刹那、殺意が動くのをグレーシェルの意識が正鵠に捉えた。
音速をはるかに越えた鉛の殺意が窓を突き破り、高原絢香の側頭部目掛けて飛来する。
白刃一閃──。
グレーシェルは急速に動いた殺意から感じ取っていた射線に、抜刀した刀身を重ねて振り抜いた。真二つに切断された銃弾は軌道を変え、片方は石壁に飾られた肖像画の額縁に、もう片方は大きくそれた上方の壁に弾痕を穿った。
グレーシェルが「走れ」と合図をする必要もなく、その殺意の強襲を契機にして高原絢香は先ほどの指示通り走り出していた。
高原絢香の足元、或いは寸秒前までいた場所に銃弾が次々と飛来し、彼女を追い詰めてゆく。グレーシェルはその光景を場違いなほどにゆっくりとした歩調で回廊を進みながら眺めていた。
銃弾が当たらないのは、殺意の急激な乱れから分かりきっていた。グレーシェルは短くなった煙草を吸いながら、高原絢香が私室の扉を開く為に脇の生体認証システムの照合で立ち止まる最後の一点だけを待ち、そして吸い差しの煙草を捨てたとほぼ同時にその時が来て、動いた。
指紋認証で動きを止める高原絢香。そこへ彼女目掛けて一挙に襲いかかる無数の殺意。
グレーシェルは無言の気合と共に疾走った。瞬時に殺意と彼女の背中の間に割って入る。愛刀を一切の無駄なく殺意に彩られた銃弾の軌道に合わせて振るい、その全てを弾き落とした。
「隠れていなさい。窓には近寄らないように」
「え、ええ……」
高原絢香が身を屈めて扉を潜り、内側からロックが閉まるのを確認してからグレーシェルは、銃弾の雨が止んだ隙を突いて、獲物で窓を薙いだ。硝子の砕片が庭園側へ向けて派手に粉砕し月光の筋を帯びて煌く。そこから間断なく跳躍し、中庭へと飛び出した。
うっすらと降り積もった新雪が青白く発光し、広い中庭の全景をぼんやりと浮かび上がらせている。
銃弾は飛来してこない。
(さあ、出てきなさい)
姿は視認できなくても、この空間に満ち満ちている殺意と生々しい殺意のにおいが彼らの存在を如実に教えてくれる。
やがて建物の帳の中から染み出すようにして、黒ずくめのそいつらはグレーシェルの前面に現れた。
人数は六人。屋上の狙撃手を含めると七人。頭部に装着した暗視装置と、夜の闇に紛れる夜間戦闘用の兵服を纏い低い姿勢で構えるその佇まいは、庭園内に立つ彼らの異質さを際立たせる。手には実用性を重視したものと思われる軍用と思しきナイフがそれぞれ握られている。
グレーシェルは愛刀を軽く一振りし、下段に下げた。二尺五寸の刃渡りを有する刀身が夜の光を浴びて鈍色に煌く。
彼らは何の躊躇もなく動いた。一片の逡巡もない殺意を放ち、六人全員で。狙撃手は無視していい。先ほどの攻防から、動くのは最後の瞬間のみだろう。
腕のいい狙撃手なら、そうする。
前衛と接敵する瞬間に、彼らは散開した。前衛に残った一人が、こちらに向かって突っ込んでくる。グレーシェルは前衛のナイフの持ち手が左である事を確認してから、足を横にずらして懐側に避けた。下段に提げた愛刀をそいつの脇腹に滑らそうとした所で背後に殺意を感じ、咄嗟に振り返りながら刃を振り上げた。背後に迫っていた兵士のナイフを弾き飛ばし、胴目掛けて愛刀を切り返す。すると、そいつの影から不意に現れた後衛が縦に構えたナイフで右薙ぎを受け止めた。
グレーシェルは軽く舌打ちし、その場から離れた。浅く積もった新雪に足跡を残しながら広い造りの庭園を移動する。出掛けに散開した六人が攻囲陣形を組んで即座に追いすがってくる。
(中々、やるわね。けど……)
先ほどレイの言っていた事が正しければ、こいつらは高原財閥直下の軍事企業から派遣されてきた兵士でも私兵部隊でもない。だが、グレーシェルにとってそれは仕事の遂行を阻害する因子にすらならない程度のものだった。
不意に立ち止まり、踵を返してすぐ後ろを走ってきていた兵士に肉薄する。明らかに一手出遅れた形で突き出してきた得物を軽く避け、そいつの持ち手である右腕を肘辺りから斬り上げた。得物を掴んだままの右腕が宙を舞い、持ち主の兵士がその様子を呆気に取られてみている。グレーシェルは、がら空きになった頚部に振り上げた刃の切っ先を滑らせた。
切り裂かれた頚動脈から黒々しい鮮血が勢いよく溢れ、そいつはもがく間もなく新雪の上に身を埋めた。もう一人、同じく後衛に迫っていた兵士を見咎め、動きを止めることなくそいつが攻勢を仕掛けてくる前に、腹部から腰まで深々と貫いた。勢いそのままに串刺しになったそいつを押し切って刀身を引き抜く。
左側に駆け抜けたグレーシェルを挟み込むように、そちらに展開していた二人の兵士が進路を遮った。両脇から繰り出された突きを身を屈めて避け、近い方の兵士の脇を薙ぐ。心臓部に充分に達した所で刀身を抜き払い、同じ軌道上を走らせて反対側の兵士も同じようにして斬り伏せた。
絶命した彼らが斃れる前に残りの二人の兵士が前方に現れ、グレーシェルは打って出た。
同じく突っ込んできた兵士の胴を斬り飛ばし、そいつの影に隠れて後衛にいた最後の兵士に迫る。首元を狙って辛うじて薙いできたナイフを軽く首を逸らして避け、それから逆袈裟に脇から肩まで斬り上げた。
さらにそこに留まることなく、グレーシェルは疾走った。最後の兵士が斃れるのを待たずそこから動き、吹き抜けの中庭の内壁と配管を足場にして屋上まで跳躍した。高原絢香が狙撃される前から、狙撃手の位置は把握していた。
照準器の先で一方的な狩りが行われる様を見続けていた狙撃手の背後に降り立ち、その者の首を斬り飛ばした。
指揮系統を失った身体が痙攣しながら狙撃銃を抱えたまま前のめりになり、屋上の縁から中庭へと落下していく。
グレーシェルは屋上の縁から人数分の殺意が消失した事を確認し、新雪の積もる中庭に膝を使ってふわりと降りた。
刀身にべっとりと付いた刀身を振り払い、鞘に収める。
死体だけが散乱する中庭を一瞥し、何を言わず嘆息した。それから中庭を横切って硝子の砕けた窓から回廊内へと戻る。高原絢香の私室の扉越しに、息を潜めて身を隠している彼女の気配を感じた。
生体認証システムの横にあるインターホンで連絡を取るべく、グレーシェルはスイッチを押そうとして──頭上に殺意を感じた。
身を投げ出すようにしてその場から離れる。回廊に響き渡る甲高い金属音。
即座に愛刀を抜き払い、体勢を立て直す。
「まだいたのね」
天井の梁から身を躍らせて、寸秒前まで自分がいた所に殺意を振り下ろしてきた者に言葉を投げかける。大理石に深々と突き刺さったナイフを抜き、そいつはゆるりと立ち上がる。中庭で交戦した者達とは異なり、暗視装置をつけていない。その事からそいつが一応男であるということが分かった。黒いマフラーを首元に巻き込んでいて表情は窺えない。が、前に長く垂れた褐色の髪の隙間からのぞく双眸から、その男の研ぎ澄まされた殺意のほどを窺える。
男の右手には、峰の中ほどを中心にして大きく湾曲した形のナイフが握られていた。それに関して深く知っている訳ではないが、グレーシェルはその得物に見覚えがあった。南アジア圏のある民族が使用する得物に見られる特徴で、それが持つ戦術的価値に着目して正式装備に採用している軍隊なども存在する。
──相対する男が持つ、その極端に肉厚なナイフはそれに比例して長大であり、使い手を選ぶものである。そんな物をこの場に持ち出しているということから、男の腕の程が分かる。そして男は、全く自然に、自分の身体の一部であるかのように得物を持って佇んでいる。
グレーシェルにはそれがよく分かる。自分と、自分の得物と同じだからだった。
男は一挙動を逃すまいと、グレーシェルの双眸をまっすぐ見据えている。
「──……」
グレーシェルは浅く息を吐き、それから動いた。
|