「あの夜より前のこと──。叔母の周囲で動きが見られるようになったのは」
「…………」
「昨年、一族は過去と比較して随分落ち着いてた。それが、北東区問題が世論で取沙汰されるようになった辺りから徐々に変わり始めた。それまでは、両派とも独自に開拓したルートを使用していたんだけど──」
「一族の総会は建前か」
「今回のような事例を除けば、そうね。近年の最高幹部協議の形骸化は深刻よ。……続けていい?」
「ああ……」
「鞍馬総連への物資運輸中に妨害行動にあったのが、そもそもの切っ掛けだった。はじめは近頃耳にする新興系民兵団の強盗紛いの作戦か?──だとか考えたりもしたんだけど、それを皮切りに数週間続くとさすがに度外視できなくなった」
「それで内調課に探らせた、と? その時点でよく気付けたな」
「憶測の域を出てすらいなかったけどね。すると、実に面白くない事実が浮上したってわけ」
「高原麻由美の攻勢──」
「いつかはそうなると分かってた。けど、まさかあの時期にとは予測していなかった。──今思えば、<あの時期>だったからなのよね。執行機関から回収した部隊を警備に当たらせる間、こちらから攻勢に出た作戦の報告を解析していくうちに、叔母の狙いに行き当った。物資の供与先がすべて、最終的に北東区へ集中していたの。……貴方も知らなかったでしょ?」
「──旅団は、かなり前から高原財閥の一派と結託して、北東区での解放区成立に向けた作戦を練っていた。大体そんなところだろ」
「そう──。最悪なことに、それに気付いたのが前日。最後の物資は既に閉鎖区域へ紛れ込んだ後だった。あの夜、叔母が総会に参席しないという情報を捉えた私は……そうすることにした。選択肢は限られていた……」
「でなければ、高原家が終わっていたかもしれない」
「────確実に死んだと思ってたのよ。……翌日まではね」
高原絢香は絞り出すようにして言い切ると、深く吐息した。
手元の写真に視線を落としながら、これだけ徹底したのだからそう思ったのも仕方のない話だろうか、とレイは考えた。二ヶ月前に本気で殺そうとした相手がスポークスマンすら使わず眼前に堂々と姿を現したら、それはそれで少なからず動揺してしまうのも、また納得できなくはない。
書斎奥のデスクで、協議に必要な資料を余裕のない表情で整理している彼女の横顔を見やりつつ、窓の縁においてある灰皿に吸殻を押し付ける。グレーシェルの姿が見当たらないが、書棚の角からわずかに彼女の影が伸びており、一定の間隔で紙面をめくる乾いた音がそこから聞こえてくる。
「何故それを、事前に開示しなかった」
無反応────と思いきや、書類の上で握り締めた筆が綴りかけの半端な文字を残して停止している。
形式的な定例報告会の閉会と共に一族を除く参席者が別邸を去り、書斎に戻ってから軽く問いただしてみたら(言い逃れの出来ない程度には言ったが)案外あっさりと吐露した。なら、今さら黙秘する理由もないだろうが。レイは切り口を変えるというより、その問題を後回しにして自ら本題に切り込んだ。
「どの程度、関わって?」
彼女の手が一瞬、ぴくりと揺れた。顔の半分を覆い隠す左手越しに視線がこちらに向けられているのを感じる。そのまま一時が過ぎ、書類ごとファイルを閉じこんだ高原絢香は唐突に面を上げた。
引き出しから煙草を抜きつつ、
「号令は私が──実行は、彼らが──」
「作戦自体に殆ど関与していなかったみたいだな」
じろり、という視線。だが、それも長続きしなかった。相対的に見て、その夜まで高原絢香は完全に翻弄されていた。前日に辛うじて追いついたとはいえ少なくともその時、彼女にとっては最早手遅れだったはずだ。
「……ご老体方から迫られてたのよ」
「矛盾、か……」
「面倒だけれど、仕方ないわ」
御老体というのはたぶん、政界の暗部にいる賢人たちのことだ。長らく伏せっている現当主の側近である彼らは事実上あらゆる権力を失っているがそれは一族内に限った話でしかなく、彼らが外部から齎す間接的な影響力は今でも大きい。高原家を二分する一派の首魁という立場を担う高原絢香も、安易に彼らの意向に沿わぬ真似が出来ない場合があるのかもしれない。
それが両派の最大の差異で、高原絢香にとっての唯一の足枷になっているのだ。
「彼らは実に手際がよかった。事態が最悪の方向へ向かうのを見越してたんでしょうね。既に現地で、強襲部隊が待機していたの。会合の詳細も、高架下の情報市場に流れていた餌をかわして入手していたようだし。──彼らはただ一つ、私の言葉を待っていただけ。それだけで、すべての責任は私が被ることになるから。……きっと、それすらどうでもよかったのかもしれないけど」ち、と忌々しげに舌打ちし、紫煙を吐き出す高原絢香。
「──だが、生存していた。事実が高原麻由美の側から公表されなかったのはまさに、不幸中の幸いか」
二ヶ月前如月旅団が第二八解放区成立時の詳細を公表しなかったのは、高原麻由美の意向があったからなのだろう。あくまで憶測に過ぎないが、高原家にとってのあの夜の出来事が暴動の引き金の一翼を担っていたとすれば、高原麻由美が公表を望まなかった動機としては充分である。公表されれば、それがどういう事態を引き起こすか彼女は分かっていた。前夜の大規模な暴動は、当初の計画には存在しなかったはずだ。
「今回の協議で引責を求めてくる気でしょうね。今更情けをかけようなんて、甘い女……」
「…………」さて、それはどうか。「──それで何故、賢人達が提供した部隊は作戦を継続しようとしなかった」
そこまで入り込んでくるつもりか、と逆に非難めいた目を向けられた。別にもうこの事については大体の予測がついているのでどうでもよかったりするのだが、見過ごせば自分達が求めている疑問の答えが遠のいてしまう。
なんとなしに書棚の方へ首をまわすと、グレーシェルが影から顔をのぞかせていた。
「……そこに、目撃者がいたという報告があったの」
レイが左手に持っている写真を指差しながら言う。そこには、かなり高い位置から叩きつけられたのか、黒焦げになっている上に原型がどのようなものだったか分からない程に潰れた車体が映し出されている。
「一応ここも北東区に分類できるエリアだ。最下層に浮浪者の一人や二人いてもおかしくないと思うけど」
「観られただけならまだよかった、どうとでもできるから。……問題は、そいつが情報封鎖の網がかかるまでの僅かな間にそれを撮って逃げたどこぞのバカなジャーナリストだったってこと」
繋がった。
「──それぞれの後始末に回らねばならなくなった。押し付けられたんだな。それで、俺達を呼んだという訳だ。そろそろ、本当の動機が知りたい」
「…………貴方達を、推した者が、」高原絢香は紫煙をゆっくりと吐き出してから言葉を紡いだ。「強襲部隊を直接指揮していた男──、”神崎”とかいう……」
「神崎……?」
三秒くらい記憶の海の中を泳ぎまわってみたが、結局胸中で首をひねるに終始した。一応グレーシェルの方へも確認のため視線を送ってみたが、軽くかぶりを振るだけだった。
「その男が? 理由は?」
「さあ……彼自身、よく分からないとか何とかそういうことを言ってた気はするけど。でも、高原財閥のデータベースに貴方達の記録があるのは、あの男から聞かされたのよ」
ずいぶんだな……。過去の仕事に関わっていた人物か──だが、それでもまったく聞き覚えのない名だ。会話のニュアンスから、彼女が虚偽を述べているとは考えにくい。
レイは眼を伏せて浅く息を吐いてから、新しい煙草を取り出して火をつけた。
「この件、なるべくなら静かに終わらせたいのよ。彼の口を借りて御老体方から口止めもされてたしね……。もう分かってるんでしょうけど、貴方達もその例外じゃなかった」
まあ、たしかにそんなもんだとは思ってた。「聞かなかったことにすればいいのかな?」
「別に。私だって自由に動きたいと思う時くらいある。……そろそろ時間──、先に出ててくれるかしら?」
「高原絢香、俺達は──」
「お願いします。私もすぐに向かいますので」
彼女の眸をみた。
──元に戻ってる。
でも、妙な感じだ。
レイはそれ以上何も言わず、吸いかけの煙草を灰皿に捨てて踵を返した。
人一人分の幅しかない通路を扉の方へ向かっている途中、ふと書棚の端に置かれた”それ”に目がいった。
「?────」
「どうしました……ああ、それですか」
挙動を見送っていたらしい高原絢香が、書類を整理しつつ声をかけてきた。
隙間なく並べられた書物の前に所在なさげに立っている木製のフォトスタンド。それほど古くない印象を受けるが、かといって最近のものとは思えないほどに劣化した写真が収まっていた。老若男女合わせて三十人程度の正装した人間が横列を組んで前を見据えている。
「家族です。中央にいるのが私、すぐ隣が叔母です」
高原絢香の示した通りの位置に、今より若干幼い顔立ちの彼女が穏やかな笑みを浮かべている姿があった。そして左隣には彼女と同年代と思しき女性が二人、同じ顔で佇んでいる──二人?
こちらの思考を読んだのか、継ぎ足すように高原絢香が口を開いた。
「叔母の姉です。二人は、母とは歳の離れた双子で私にとっては姉妹のようなものでした。十二年前に母が他界し、彼女もその時に」
中東騒乱──派閥間抗争の種が芽吹いた時期だ。たぶん、その直前に撮られた写真なんだろうなとレイはなんとなく思った。もう一度、写真をよく見てみる。
──貌は同じでも、そこに湛えられているものは全く正反対のようだ。
「──時間というのは何故、すり減っていくようにしかできていないのでしょうね」
彼女にしてはひどく不似合いな言動を聞いて振り向いてみたが、いつのまにか立ち上がりデスク裏の窓から夜景を眺めている背中しか目に映らなかった。……だが、それでも充分に分かる。
「…………」
彼女はすこしだけ、写真の中の頃に戻っているのだ。
自分達と顔を合わせる度に見せた、端整でいてしかし、歪みきったあの笑み。あれは、この十数年の間に道を見失ってしまった心の揺らぎと疲弊、孤独を覆い隠し続けるために、周囲に悟らせないために彼女が創り上げたもの。
扉口に立っているグレーシェルが、何してんの?という視線をこっちに投げている。
「幸せなことかもしれないよ、それは」
*
「今夜もか……」
開け放った両開きの窓から、いつの間にか降り始めていた雪をみてグレーシェルがぽりつと呟く。彼女の後姿を視界に入れながら、レイは廊下の壁にもたれて思案を巡らしていた。
「神崎……」
「聞いたことない名前よね」
「その男にしたって、俺達と直接接点があったかどうか疑問だし」先程、高原絢香がそれをにおわせる言動をしていたことをふまえると、そう考えておくのが妥当だ。もしかしたらさらに奥の、神埼とやらを管轄下においている高原家の賢人達が何か関係しているのかもしれない……が。
「とりあえず、ここで打ち止めか……。手すきの時にでも探れればいいけど」
「そうね……」
「ジャーナリストの動向について、彼女は何も知らされてないみたいだな」
「ある意味当然だけど、妙じゃない?」
定例報告会の閉会直後にグレーシェルから聞き及んだ話と高原絢香の言葉を総合してみると、中庭にいたという二人のうちの片割れが、そのジャーナリストである可能性は高い。何の用か知らないがこれほど近くまで悟られずに入り込んでこれたということは、すくなくとも今の時点では捕捉されていないらしい。そこに公安が絡んでいたことが、高原絢香に情報が入っていない要因の一つだろう。
コトの全容は漠然とながら掴んだ。ジャーナリストがどういう爆弾を抱え込んでいるかのかも。
──だが、いずれにせよ、今夜終わる。
「ん……。とりあえず、俺達は俺達の仕事をしよう」
「ええ」
高原絢香が吐露した記録から、一つ、確実に分かったことがある。
高原麻由美の影に、誰かがいる──。
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