Episode2

 

 夜半の世界に浮かび上がる摩天楼の群が徐々に煌きを失っていく光景をサイドガラス越しに眺めていると、対向車線の大型車両のヘッドライトが視界を一瞬遮ったそのわずかな間にまた一つ、摩天楼の灯火が闇の中に沈んだ。
 都市全体がようやく眠りに就こうとしている。──が、それはいつものことでこの世界は決して朝日に溶け込む訳でも夜闇に染まる訳でもなく、中途半端に夕焼けを背負ったような格好で結局新しい暁を迎えるだけでしかない。
 眸に映る姿はそれぞれ異なっていても、本質的には何も変わらないな……。
 北東三区へ直接繋がっている数少ない幹線道路の一つ。この二週間、旅団側の具体的な承諾なしで集結した中小規模の民兵団が相次いで起こした爆弾テロによる主要道路切断の影響で、一部周辺区域を含む北東区の治安は急激に悪化していた。おかげで現在走行中の高架道路も、本格的な夜が始まろうという時間帯と相まってか車両の通りはまばらだ。
 短くなった吸殻を灰皿に押し付けてすぐに新しい煙草を咥え、空いている方の手で懐をまさぐる……あれ?
 どこか別のところに仕舞ったかとポケットをはたいていると、点火を済ませた見事な装飾の金属製オイルライターが隣から伸びてきて眼前に止まった。
「悪いわね」
 先端に火を灯しながら助手席に座っている彼女を流し目で見やる。彼女自身もまた同じ銘柄の煙草を吹かしつつ、しかし、薄闇の中に浮かぶディスプレイを険しい表情で睨み続けキーボートを叩いていた。
「すこし休んだら?」
「……大丈夫……それより間に合いそう?」
 互いに視線はそれぞれの方向へ向けつつ、胸中で浅くため息をついてから、
「ええ、詳細は東二区と七区、北東一区、それに中央三四層からそれぞれ先方に知らせてある。御破算になるとしたら、こっちの都合が悪くなった時くらいね。彼らにリスクを背負わせるわけにはいかないし。無論、私達も大丈夫。流しておいた餌に食いついてるみたいだから」
 事前工作の最終段階として昨日、直系傘下の形骸組織を通じ高架下の特定情報市場に偽装情報をそれ相応の値段と共に流布しておいた。これに直接関係する話で二週間前のことだが、その時点で判明していた限りで<第四解放区>と<第六解放区>といった大所帯エリアの周囲に散在する地下組織の一部が公安一派に買収されるという問題があった。幸いというには小さくない損失だったものの、懐柔されたのはあの辺の管轄権を一手に掌握している如月旅団の末端機構で、彼等は気取られないようそれを逆手にとる手段を選んだ。
  そして事前の申し合わせによって、会合の偽装情報を末端機構が裏で糸を引いている情報市場にばらまいたのだ。それは上手くいった。調査報告では今夜この幹線道路で検問が執り行われる予定だったが、情報で流されたらしくその心配はない。北東五区以降はそれとは別に臨時検問があるかもしれないが、”よほど”のことがないかぎりそこまで行くこともないはず。
 勿論、今回の会合が無事に済めば時を待たずして政府側に買収事実が左派勢力に漏れているという問題が明るみに出るのは明白であり、その際の進退に関する決議も会合内容に含まれている。
 今回の会合は、我々の”一族”にとっても重要な転換期になるだろう……。
 助手席の彼女は一時手を休めて、
「そう」と短く答え、すぐにブラインド・タッチを再開する。「輸送状況の方は? 貴女の兵隊に主導させるとかって聞いたけど…」
 その提案は自分がしたものだ。主要議題でもある北東区占領作戦に必要な物資運輸についての骨子は予め組み立てておいたが、実行に関しては部下達に一任してある。
「そっちまでは手を回せなかったけど、妨害に合うのは織り込み。既にいくつか手を打ってあるから、セオリーに則って動けば到着できるでしょうね。それとは別に保険もかけたから」
「保険? それで確実にかわせるの?」
「この国の警察はとても優秀。けれど、今回の事変がどういうものか未だ理解していない以上、先を読まれることはない」
 この国の……そう言ってみてはじめて、自分が母国から久しく離れていた事実を思い出した。もう、どれくらいになるかしら……十年?……いや、もっと?それを抜きにしたとしても、書類の上ではとうの昔に死んだことになっているのだから似たようなものか。改めて認識した途端、何だか乾いた笑い声が自然と出てしまった。
 視線は相変わらず各々の方向に向けたままだったが、その声に対して怪訝に思う気配が助手席から伸びてくるのが手に取るように分かった。
 あえて何も応えず……というより応える必要などなにもないので、その代わりわずかに口許を歪めたまま車線を移り別線入口へ向かう。右手の腕時計の画面をライトアップすると時刻は午前二時十八分を指していた。このまま進めばあと三十分程度で北東三区の境界を越えるだろう。
 螺旋構造の道路を上がり切り、ちょうど目の前を通り過ぎた車両の後に続いてするりと通常走行車線に滑り込む。
 最上層の幹線道路に等間隔で並ぶ淡い橙色の照明の間々からみえる都市は先ほどまでとは若干その形相を変えていた。
 深い闇の海から生え出でた摩天楼群が、無秩序に林立する異様な光景……。それは目的地に確実に近づいているという指標だった。
 貧困層の割合が突出して多いこの区画は物理的に下層へと下がるにつれて電力供給の差異が際立ち、地上部に至ってはここから何があるのか朧げ程度にすらも確認できない。
 その反面、一部の富裕層は三十年前よりも緩やかなになったとはいえ依然として開発の進む独立型複合都市の上へ上へと忙しなく引越しを続け、彼らのような人間にとって必要とされなくなった部分へ貧困層がなだれ込み侵食を繰り返すという、不毛な追いかけっこが今もなお継続されている。
 いつのまにか先ほどと同じくらい短くなっていた煙草を灰皿に持っていくと、助手席の彼女が眼鏡を外して眼をこすっていた。
「代わりましょうか?」
「ううん……大丈夫。もう終わったから」
 ひどい疲労感の滲む返事をよこしながら、膝の上においていたノートパソコンのディスプレイをぱたんと閉じた。「まだ時間があるから、すこし休んどきなさい」同調するように頷いた彼女は背もたれに全身をあずけると若干顔を上に向けながら煙草を咥えた。胸ポケットに目当てのものの感触が確認できず他のポケットをまさぐっていたので、
「はい」
 何気なく視線を落とした先、ドアの内側ポケットに隠れていた自前(と言っても安物だが)のライターを点火して煙草の先端へ持っていく。何気ない無意識動作の連鎖の中にたまに見知らぬ因子が入ってしまうことがあると、思い出すのに意外と手間がかかるものだ。
「礼を言わなきゃね……」
「いきなりどうしたのよ?」
「貴女が帰ってきてくれなかったら、私……ここまで来られなかったもの」
「約束を果たしただけ。当然」
「そう……あの日、もし私達が逆だったらどうなってたんだろ」
「今の立場が逆になってただけでしょうね」
 何の感慨もなく単調に応えたつもりだったが、長い時間をかけて紫煙を吐き出した彼女はその行為の延長でくすり、とさっき自分が見せたのとは異なるひどく自嘲気味な笑みをもらした。
「いいえ、そんなはずない。あの時……貴女は動き、私は逃げた」
「互いを信じて、自分のやるべきことを遂行しただけ。間違っていない、むしろ誇っていいことよ。だから私は戻ってきたんだから」
「過去を省みても仕方ない、か……。ふふ、貴女が羨ましい。私にできるのは、これくらいだから」
 またしても自嘲気味に笑み、閉じられたノートパソコンの上にぽんと手をおいてみせた。
「今の貴女はそれで充分。何も感じることはない」
 それで正しい……そう信じている。
 彼女は疲れているのだ。この十数年、激動する時代の荒波の中でもがき続けた結果、己の進むべき道を見失ってしまった。そんな彼女の新たな道標になる為に、私はようやく自分の国に帰ってきた。彼女はそれを待っていた。ぎりぎりまで。あの時、二人ともあの場に残っていたら恐らくこうはならなかったろう。……逆だったらどうなっていたか、それは分からない。でも、現に私達は今ここに存在している。その事実だけで今は充分。
「うん、ありがとう。そう信じてみたい…………でもね……、」
 そこで言葉は終わった。視線を流して表情を垣間見てもよかったが、その必要がないのは互いがよく知っている。
「──バカなこと言わないで」
「うん」
「貴女には貴女の立場を護る義務がある。私には、私の役目を果たす義務がある」
「うん」
「夜が明けていない、それだけなのよ。私には、貴女の出来ないことを沢山できる。多くの異なる生き方、異なる価値観を知っている。……多くの同志と長い時間を、数え切れない死を、血腥い生を共にしてきたわ。でも、それだけ……」
「うん」
「私は絶対に護る……。だから、貴女も誓って」
「……うん……約束する」
 ようやく、彼女は笑んだ。それは先ほどまでのかすれた笑みとは違うもの。私には、もう出来ない微笑み方。……すこしだけ、羨ましかった。
 フロントガラスの向こう、まだ距離はあるが左側に北東三区へ辿り着くための最後の分岐路がオレンジ灯に手照らされているのが目に入った。これなら予定より若干早く着くかもしれないわね……。心持ちハンドルを左側へ傾けつつ速度を緩め……
 次を反応することが出来たのは、幾度となく潜り抜けてきた死線の中で培った経験則と研ぎ澄まされた判断力のおかげだった。
 対向車線側沿いに建ち並ぶ高層ビル、その一角の屋上に設えられた看板の陰から上がる噴射炎。加速してこちらへ真っ直ぐに飛来してくる物体。
「伏せてっ」
 そう叫ぶとほぼ同時にハンドルを出口とは反対側に切った。激しい震動と共に回転しつつ横滑りする車体の中から、狙いを刹那の差で外して飛翔していった弾頭が後続車両のボンネットを突き破り内部へ侵入するのが見えた。
 炸裂の瞬間は、こちらの意思とは関係なしに続いている横滑りのおかげで目視せずに済んだが、耳を一時的にでも聾しそうなほどの轟音が容赦なく響く。もう一度後方へフロントガラスが向いたが、路面にはおまけ程度に火のついたバラバラの破片が散らばっているだけで、肝心の本体の方はどこにも見当たらなかった。
 かつん、と何か金属質のものが屋根に当たる音。数回転した末ちょうど進行方向へ車体が向いたと同時に文字通り火だるまになったセダン型と思しき鉄の塊が上から降ってきて、出口をものの見事に塞いだ。
「な、何っ……?」
「ちっ……」
 即座にアクセルを踏み込み本来の出口を切り捨てる。このままここに留まっていてはダメだ。
「どういうことっ。 読まれてたの……?」
「そんなはずないわ」
 こうして現に攻撃を受けた以上今の言動には何の根拠もないが、少なくとも前日の予防工作は充分に手を打ってあったはずだ。そして何よりも直感が告げていたのだ。破られることはない、と。じゃあ何故……?
「外を見てはダメっ。伏せてて」
 鋭い声で有無を言わさず従わせ、制限速度を軽く三倍越えしたスピードで逃走に移る。すぐに第二撃がくる。
 これじゃ会合は延期ね……
 非常用の脱出口は一応目星をつけておいたものの、この具合では恐らく使えまい。今回の会合そのものが先手を打たれる可能性がなかったはずだから。
 一体、誰が……?
 一切速度をゆるめずカーブに差し掛かった時、新たに三つの赤々とした光点が確認できた。軋み音を立てる車体の重みで運転を誤らないよう、しかしわずかな迷いもなく大胆にハンドルを傾ける。目測で約二百メートル前方から突っ込んできた弾体は、後部安定翼でサイドミラーの側面をコンマ数ミリ削り取りバランスを崩しながらもそのまま後方に姿を消した。続いて進行方向を瞬時に修正した上で加速し両サイドから同時に発射された弾をかわす。弾頭分の爆発音と赤銅色の炎を背後に感じつつも決して後ろは振り返らず、確認のためサイドミラーを寸秒のぞくだけに留めておく。
 既に五区を通過した。このままでは郊外へ出てしまう……そうなったら……え?
 突然、妙な違和感──いや、既視感を感じた。
「……五区を過ぎたわ。六区は使えない。どこか出口は?」
 ノートパソコンを抱き込む形で両手を後頭部において屈んでいる彼女に問う。
「七区と八区も臨時検問が行われてる可能性が高いからダメ……最寄りの解放区は?」
「距離を考えると現実的じゃないわね。下へ降りるしかないか……?」
 下層部の繁華街に紛れ込んだら車両を乗り捨てることも選択肢に加えておかなければ。相手が誰か判別できなくとも、常に先手を取ることを忘れるな。
 頭の中で瞬時に行動パターンを組み立て第三撃に備える。次はどこから……?
 違う。来ない。待て……何だ?身体に染み付いた暗黒の経験則とは全く異なる……しかし、これは知ってる……。次の一手は……
 対向車線から真黒の塗装が施された大型トレーラーが鈍重な車体を引きずるように向かってくる。運転手は先ほどの爆炎に気付いていないのか斜め前に立てかけた週刊誌を見ながら呑気にあくびを立てていた。
「来る……」
 大型トレーラーの運転車両の右側のタイヤが弾けとんだ。まさに刹那の間だったが、確かに見た。狙撃……。恐らく対化物用狙撃銃かそれに準ずる銃火器の類。マズルフラッシュは確認できなかった。完全に知覚外からか……。こちらが一般車両とは違うのを見越していたのか、それとも予め知っていたのか。
 もし知っていたとしたら……いや、そんなことはない。
 運転車両が慣性に従い斜めに横転すると、瞬間的な衝撃によってギミックの粉砕したトレーラーが垂直に乗り上げ……
 ガードレールを越えてこっちの車線に倒れ掛かってきた。
 止まるな。走り抜けろ。間に合わない。格好の的に……いやその前にぶつかって……ダメだ。距離がありすぎる。速度が……足りない。

 間に合わない。くそ。
 漆黒の筺体が比較にすらならないこちらの車両を巨大な影で覆う。
 また、何かを感じた。
 ええと? これは……砂色の……燃え盛る海……妨害してきた……あれ? ……そう……知っている……
 本当に、何の前触れも感じなかった。
 ──でも、そうなるのは分かっていた。

 どんっ──

 視界全体に映ったトレーラーを包み込む爆炎──。

 強大な爆圧に吹き飛ばされたトレーラーは本来押し潰すはずだった真下の華奢な車体を飛び越え、幹線道路の外壁を突き崩して轟音と共に闇の中へと落ちていった。
「たす、かった……?」
 ほとんど原型を留めていない残骸を対向車線に残して進む。
 第二撃以降の妙な既視感……待ち伏せ……影から飛来する物体……攻撃手順……回避のタイミング……狙撃……妨害……爆炎……いや違う、前だ、戻れ、どこだ?
 ……狙撃? そう。あれはたしか……
 思い出せ。これは既視感なんかじゃない。
 誰だ。
 私じゃない。よく知ってる。
 誰が傍にいた? …………
 あれは、私が…………
 先ほどからずっと感じていた既視感の正体を確信した時には既にハンドルが下層部出口の方へ向いていた。

 しまった……コースに、引きずり込まれた。

 叩きつけられる衝撃。
 身体のどこかから響く──めき、という音。

 世界が、逆に。

 深く暗い闇が大きな口を開けて待っている。
 粉々に砕け散ったレンズ。
 額を赤く染めて目を閉じた彼女。

「ま──」







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