Episode1

 

 そこには、二人しかいなかった。無造作に手足を投げ出して仰向けになった顔のない死体と、自分だけしか。妙な郷愁を感じさせる<それ>を眺めているうちふと、何かを感じて両手を眼前に掲げてみると、見事としか言いようのないほど、上腕の中ほどまで一部の隙もなく鮮血色に染まっていた。うわ。かなりみっともない間の抜けた声を上げたが、その声は誰にも聞かれることはなく、発した本人にすら届いていなかった。それに気付くとほぼ同時に、原始的な恐怖が脳内を急速に支配し血に濡れた腕をまるで自分ものではない他の何かと錯覚して、容赦なく爪を立て引っ掻くようにして振り払う。皮膚を抉り、幾筋もの朱線が次々と浮き上がっていく。息が上がりきった頃には両腕は切れ味の鈍い刃物で何度も何度も引き裂かれたようになり、そこら辺に撒き散らされた血が一体どちらものなのか分からないほどまで傷ついていた。

 …………
 ……
 …………

 死体と、何かから逃げ出したくて、踵を返して走り出した。前も後ろも右も左も、どこをどう逃げているのかもすら視えない。
 暗い世界が無尽に広がり、しかしそこに巣食う闇々が血の足跡に付着したにおいを辿って背後から迫ってくる。後ろを振り返った時には、もうあの亡骸の姿はどこにも感じられなかった。

 ……た

 ? 遮断されたはずの感覚の概念を飛び越えて直接語りかけてくる声があった。違う。そう怒鳴り返した。届いているのかは分からない。発した言葉が意味を成しているのかすらも分からない。

 君が、殺した……

 違う!
 瞬間、何かしらの空白の後、引きずられるようにして飛んできた甲高い音が鼓膜を突き抜けた。鋭い痛みが頭の中で乱反射を繰り返していたが、その場に留まっていてはならないとその程度の判断力は残っていたので、とっさに被せてしまった両手を半ば無理やり引きはがした。

 絶叫。

 焼け爛れる皮膚。
 沸き上がる血液。
 引き千切れる筋肉。
 割れる、骨。

 溶けていた。
 手の甲が火ぶくれ立ち、皮膚がどろどろと溶け出して闇の世界に滴り落ちる。神経ののぞいた筋繊維がぱちぱちと場違いな軽い音を立てて千切れ、闇々が新しく堕ちてきた餌に狂喜し我先にと飛びついて互いにいがみ合いながら暗い口腔に甘い粘液を流し込み、さも旨そうな音を立てて咀嚼し始めた。

 痛い……
 熱い……
 痛い。痛い。熱い。
 痛い。熱い。
 痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。痛い。
 熱い。痛い。熱い。痛い。熱い。いたい、あつい、痛い、痛い、熱い、
 痛い、熱い、
 あつい、
 いたい……痛い。

 遠い先祖の時代から延々伝えられてきたかのような呪詛の言霊が全身に絡みつく。両腕の上腕筋が感じるはずのない異臭を放ちながら焼け落ちて骨格をさらし出すと瞬く間に黒く炭化し、灰になって崩れてゆく。浸蝕はなおも進行し、二の腕から全身へと拡大してすべてを呑み込もうとしていた。共に響き渡り、割れ堕ちていく悲痛の残滓。
 不快な何かを感じ条件反射で後ろ振り返ると、意思を持つ闇々が地面を這いつくばりながら猛烈な速度で追いすがり背骨のむきだしになった背中を一心不乱にその穢れた牙と舌でむさぼっていた。
 それでも走った。身体の中身を喰い尽くされ、空っぽになりかけていても。ただ、ここから逃れられる希望があるのであれば。根拠のない可能性にすがりついていることにすら気付かず。
 底から生えてきた腕に、足首を引き千切られそうなほど強くつかまれながら走り続けた後、唐突に<終り>を感じた。覚めようとしている?
 走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ。もうすぐだよ。走れ。走れ。
 既に感覚のなくなった両足と内部に唯一残った心臓の欠片を鷲掴みにかかる闇々のけたけたと笑う嘲声。
 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れっ……。

 君は、そうやって逃げるのか?
 違う。
 あんたに何がわかるっていうんだ。僕には君の考えていることが感じられる。嘘をつくな。いいえ。私は貴方のことを僕は貴女のことを信じてる。君にこの人はなぜなら僕は君の三十年前我々に刃向かったとても愛していた殺した違う殺したんだ違うんだ何がだあの日私達の大切な駆け抜けてきた大陸の誓い忘れるな思い出彼女の裏切った墓前でそんな訳はない愛にそんな話があるか実際に見たんだよ気付かなかっただから弱く一番生き永らえられた幼かった君のその言葉が彼女をお願いそんなはずはない君自身の頼む誰でもいい臆病でどうしようもない砕いてくれ歪めたんだ仕方ない俺の心誰でもいいいやだ踏みにじってくれ貴方は誰のためにそれを定義するというの何故生き延びてほしかった彼らは冷たいあたたかい暴走を冗談だろ君の手あんたがいたから俺の資格などない時間もない夢をみているだから行くお願い解放したの記憶をついていけない誰が伝えた貴方の帰りを戻ってこい初めて生れ落ちた行かないで何のために決して私達も約束したでしょう必要としている進む意味が我々というどう受け止めるかは無意味かもしれない資格などたとえ一人でもこの先へさせないどこまでも共にありがとう認めない私は尽きぬ出会い黙れ成功するはずだったんだ誰が行かないで許して何を分からないあの後逃げ出した怖くて君は大丈夫嘘だ嘘なんかじゃない愛してる本当に教えてくれなかった傷つけたくなかった僕は私は任せて再起しよう礼なんて言えない憶えてる振り仰いでかの方から失敗恐れるな前へ繋ぎ止めてくれる行こう一緒に果てまで刻まれゆくもの────。
 嘘なんて言わないで。
 俺には、無理なんだよ。
 離れるなんて言わないで。

 ──黙れ。

 君がやった。

 我々の総意に牙を剥いたのだ。

 なあ、そうだろう────?

 どこか遠く。でも、とても近い。聞き覚えのある。
 名を呼ばれた。


                        *


「レイ」
 その名を呼ばれ、次の瞬間に意識を自覚した時には一人の女を組み敷いていた。手の甲に血管の浮き出た右手が鷲掴んでいるのは彼女の胸元より心持ち右側、正確には心臓部の丁度真上。抉り取るように立てた爪先が、まだ血は滲んでいないが白皙の肌に深く食い込んでいる。しかし、彼女はその濃い茶褐色の眸を一時だけ丸くさせてから、やがて吹き出し、
「何? 今さら抱く気?」
 と、軽く嘯いてみせた。頭に上っていた何かが、いや、全身に絡み付いていた何ものかが急速にどこかへと消え去っていくのを感じると同時に、今、自分が何をしでかそうとしていたのかはっきりと認識して自分への激しい嫌悪が代わりに湧き上がってくる。
「……あ、いや……」
「じゃ、早く放しなさいよ」
 あきれ気味にそう言って彼女が指差した先を見下ろすと、先ほどよりは緩んでいるものの今だ充分に力の込められた右手がそのままになっていた。自分の意思とは関係なく、石化したように硬直している右手に働きかけ慎重に腕を引き、彼女の脇へと身体を退かせる。
 何やら鈍い疼痛がくすぶっている頭を抑えつつ、辺りを見回した。左側のブラインドの隙間から届く淡い光、隅に佇む役目を果たしているのか疑問のクローゼット、床に無造作に散らばった衣類、雑誌、その他もろもろ……。お世辞にもあまり整っているとは言えない、全体的に薄闇に包まれた空間。俺の、部屋──。
「もう正午過ぎだけど、食べる?」
 いつの間にか立ち上がってドアノブに手をかけながら、ブラウスの乱れた襟を直しているグレーシェルが訊く。その手が襟元から下ろされた際、肌にくっきりと爪の痕が残っているのが見えたが、彼女はその事に関しては全く頓着していない様子だった。
「あ、うん……」
 脇の椅子にかけてあった上着を引っつかんで着込み開けっ放しのドアをくぐる。
 決して広くはないが、人二人が暮らすには充分な間取りのリビングのテーブルに置いてあるサンドイッチを皿ごと取ると、大通りに面した窓の縁に腰を下ろした。テーブルを挟む格好でソファが二つあるのだから(片方はグレーシェルが背もたれに深く沈みこみながら週刊誌を斜め読みしている)そこで食事をとっても何ら問題はないのだが、ここに移り住んでからしばらくするとなぜか、窓辺のそこがレイの定位置になっていた。
 若干遅めの昼食を機械的に口に運んで頬張りつつ、林立する摩天楼の群の隙間から重い灰白色の曇天を垣間見る。
「レイ、これ」
 窓に映った明るい室内の中、グレーシェルがソファにもたれた格好のまま手元で何かしていたので振り返ると、眉間目掛けて飛来する紙飛行機が視界一杯に飛び込んできた。くす、と軽く笑む彼女を尻目に、見事ど真ん中に命中して自然のままに掌に落ちてきたそれを片手で器用に開ける。堅苦しい文章のびっしりと羅列された文書が姿を現した。
 生真面目に始めから終りまで読んでいるとそれだけで何か萎えそうだったので、さらっと必要な部分だけ流し読んでいく。
「……、いつだ」
「今朝。面倒なことをしてくれたものね」
 概要はこのようなものだった。
 先日、<エリア22>の準解放区における戦闘の際、同志の一人が戦闘中行方不明となった為、消息が判明するまで各自警戒されたし。
 使いを使って直接送りつけてくるという事は、この事実は現時点ではまだ明るみになってはいないということか。加えて消息が途絶えたのは、エリア22に新しく灯火を灯すべくやって来た新興系勢力の別働隊指揮官ということから、おそらく例の政府機関の暗躍の可能性を示唆している。
「ふうん……」
 要は、しばらくの間過激な行動は自粛しろ、というお達しなのだろうが、そういう事なら、警告する相手を微妙に履き違えているような気がしてならない。まあ、こちらの立場上、それが難しいのは仕方ないのが現状な訳なのだが…、まあ、いちいちそれについて異議を申し立てるつもりは毛頭ない(したらしたで必ず面倒くさいのが噛み付いてくる)。ということで、文書を再び紙飛行機に折りなおし、テーブルの傍に置いてあるゴミ箱に向けて発進させる。
 と、機首からすとんとゴミ箱の中へ姿を消したのを見送ったその奥、廊下の壁に立て掛けられた全身鏡の前で、グレーシェルがいつの間にか外出の準備をし始めていた。
「出かけるのか?」
「ええ、ちょっと入用のものがね…」
 鏡の中の自分を見つめつつ、手際よく着替えを済ませていく。
 彼女……グレーシェルは贔屓目に見なくとも、充分に美しい女だ。彼女の愛用している純白のロング・トレンチコートは、現代の女性にしては比較的長身のすらりとした身体によく似合い、仄かに淡い薄青が混じる茶褐色の眸はその者が持つ意思の強さを具象化しているかのように鋭く、周りのものを様々な意味合いで意識させる魅力を放っている。そして、彼女の外見で最も特異なのは、その髪だった。鮮血を浴びたように赤い、光の加減によって蘇芳色に見えたりもする長髪は緩やかな曲線を描いて腰辺りまで伸び、新雪のように白いコートに映える。
 本人には悪いが、強い言い方をすればちょっとした悪意を持つ天使のような容貌である。
 しかし、彼女との腐れ縁? も、とうの昔に文字通り地の果てを通り越したからなのか、レイは普段から顔を合わせていて意識するようなことは何もなかった。
「夕刻には帰ってくるから」
「ああ、……?」
 最後のサンドイッチを噛みしだきつつ何を見るでもなく下層の大通りをぼう、と眺めていると、建物の陰から明らかに武装した覆面の集団が十数人、染み出すように現れた。この時期、この時間帯に下層部の大通りを含む路地を何の気兼ねもなく闊歩する一般市民はそうそうおらず、実際集団が現れた閑散とした大通りには、彼等以外の人の姿は確認できない(いない訳ではないだろうが)。
 こちらの姿が視えていることはないと思うが、一応警戒しつつその者達の挙動を見送る。
 ほとんどの者がAKM小銃で武装しているが、中には携行型無反動砲のような物騒なものを担いでいる奴までいる。積み重ねられた廃車を隠れ蓑に、隊長格と思しき者が手話で的確に指示を出し、集団はそこに一時立ち止まっただけで、瞬く間に散開して方々の闇の中へ溶け込んでいった。そこそこに有能な集団らしい。
「レイ?」
 気配のわずかな変化を気取ったのか、グレーシェルが玄関先から言葉を投げかけてきた。
「……俺も行くよ」


                        *


 無骨な鉄製のベンチに腰掛けて煙草に火を点けたと同時に吹いた強い風が、レザーコートの裾を激しく煽るついでにマッチの火もさらっていった。一本頂戴したマッチ箱を、店先の棚に置いてあるバスケットに戻す。
「おい、何手出してんだ」
「いや、タダだろ」
 と、さりげなく突っ込みを入れつつレイは、硝子貼りの天井越しに見える曇天を振り仰ぎながら、紫煙を吐き出した。強風が通り過ぎてからも途切れることなく、ゆるゆると微妙な感じで流れ続けている冬月の風がそれを絡め取っていく。
 まだ陽が傾くには早すぎる時間帯だが、アーケード街は第一層から八層まで買出しに訪れた人々でごった返していた。この一帯の区画は主だった勢力は常駐していないが、治安が他所と比べていいという訳でもない。一度闇の帳が落ちてしまえば、そこから先の世界は途端に治安の保障が効かなくなり、余程のことか、或いは<有事>でなければ一般人は外を出歩かなくなる。そういった面倒に巻き込まれたくないがために、必然と大抵の人々はこの時間帯選んで買出しに殺到する。
 ──ここも市民の大半がシンパであることに変わりはないだろうが。
「どうよ、景気は」
「んー、ぼちぼち、とか言ってほしい? …ていうか、知ってて言ってるだろ」
 アーケード街最上部の吹き抜けに面した通りで売れ行きのさっぱりな(銘柄は豊富なくせに、レイが好んでいるものが何故かないので、もちろんレイもここで買ったことはない。それにどうせそっちは趣味であって本業でないのだから、来る度に品物を一通り眺めてやる程度の義理もない)煙草屋を営んでいる若き? 店主からの景気話を適当にはぐらかしつつ切り返す。
「そう邪険にすんなって。むしろ感謝してほしいくらいだ」
 どの面下げて何言ってんだこいつは。あのような警告文書は身内だけで充分なのだから、わざわざこちらにまで望んでもいないものを送られると、それははた迷惑以外の何ものでもない。分類を勘違いされると困る。送り主がこいつではないので言っても無意味に帰すだけだが、何かにつけて恩を着せたがるこいつの性分には前々からうんざりしていた。しかし、情報筋の正確さだけは毎度特筆すべきものがある故に、今回のことは黙っていてやることにした。
「…で、何か他には?」
「どのエリアの勢力かは分からんが、近日中に<解放区>成立の動きを見せるって話が入ってきてる」
「解放区……、こないだ北東区に出来たばかりだろ」
「最近、あの辺は民間組織の台頭が著しい。恐らく、近辺にもう一箇所おっ建てるつもりなんだろうよ。もしくは──と、詳細の方はアレクセイにでも聞いてくれ。面倒くさい」
「アレクセイ? あいつがどうかしたのか?」
「ああ、お宅らを呼んでる。手間が省けてよかった、ほれ」
 店主は心なしかどこか明後日の方向に目線を向けつつ、レイの嗜好品ではない銘柄の箱を手元から取り出してこちらによこしてきたので若干訝しみながらそれを受け取り、すぐにその仕組みに気付いた。軽い──。
「ここら一帯、二週間ほど前から公安一派が網張って活発に動いてやがる。気をつけろよ…」
 声を潜めて警告を発しつつ先ほどから向けている視線の先を見やる。こちらと向かいの通りとをつなぐ渡り回廊の辺りを見ているようだが……なるほど。
 ひっきりなしに人が行き交う回廊の雑踏の中に、傍目からは不規則だが、セオリーに則った時間の間隔をおいて階層の移動を繰り返す人間の姿が、興味なさげに眺めているうちに数人確認できた。
「それらしいのは、もう見たよ」自宅を出る直前、下層のストリートに出没したあの武装集団といくらか繋がりがあるとみていいかもしれないが……今の段階では自分達が関知する問題ではないか。
「あんたも、面倒な立場になったもんだな」
「まったくだ。ま、二人に比べたら随分マシな方だと思うがな」
 後半部分はなにやらこちらに対する皮肉のようにも聞こえたが、今さら言い返すことでもないので代わりに煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。その時、白い吐息と混ざり合って揺らめく紫煙の向こうでかすむ回廊を、見慣れた蘇芳色の髪を持つ女が亜麻色の紙袋を片手に抱えて渡ってきた。途中、中ほどの欄干にもたれ掛かっている男の傍を通り過ぎる前後彼女の視線がわずかに動いたが、それだけで何事もなかったかのように(実際何もないが)渡り切ると、一部始終を眺めていたレイのもとへやってくる。
「よお、久しぶりだな」店先に立ち、レイの吸っている銘柄と異なる煙草に火を点けている彼女に、傍目には普通に呑気な挨拶をした。
「ええ。あれ、あんたに付いてるの?」
 店主は半分はな、と面白くもなさそうに応える。グレーシェルが確認したあの男は定刻が来たのかエスカレーターを使って下の階層に姿を消したが、それと入れ替わりの要員がすぐに上ってきて所定の場所についた。
 短くなった吸殻を弾いてベンチの反対側に備えられていた灰皿に捨て、冷え切った外気を吸い込んでから立ち上がる。
「どこか行くの?」
「アレクセイが呼んでるってさ」
「あいつが? なんで」
「さあ」
 適当に受け流してそのまま店主に視線を投げると、俺も知らんよ、とかぶりを振って示してきた。
  「ふうん…、じゃ、預かってて。後で取りに来るから」
 グレーシェルは煙草を口に咥えると紙袋をひょいと遠慮なく棚に置いた。今から向かう先は少々面倒なところにあるため、邪魔になる手荷物を持っていては、万が一の際捨てざるを得なくなる。
「はいよ、と……」
「じゃ、頼んだわよ」


「雪、降ってきたな……」
 頬に何か冷たいものが染み込んだので、灰白色の重い空を振り仰ぐと真白い結晶がちらついていた。
 煙草屋から離れた後引っついてきた虫を適当に撒いて地下鉄構内へ降り、ホーム最端に設えられているベンチにいた初老の男に問いかけると傍の非常用階段の陰に隠れていた扉に案内され、ここを歩いている。
「今夜は積もるかしら」
「どうだろうな」
 煙草の代わりに入っていた指示書に従いつつ、自分が切り出した話題でありながら適当に相槌を打って会話を終了。赤銅色に錆びれ果てた配管が両壁に伸びているこの非常に狭い上に、崩落した天井の一部分から届く不十分な光しか頼りにできない通路は、どうやら建設半ばで廃棄された何かの地下施設の機関室の一部らしい。

 二十一世紀初頭が半ばを過ぎた頃、首都圏をはじめとする主要都市全ての<高機能都市化計画>というものが考案された。時代の急激な変遷への即時対応を可能にし、あらゆる国内産業を高度発展させる温床を創造するというのが抽象的に言うところの当初の目的だったらしい。その計画の途中段階、当然の代価として個人から政治規模まで様々な経済問題が発露したが、当時の政権一派の圧力によって強行に計画が推し進められた結果、この国は近代史上稀に見る経済的進化を成し遂げ、首都圏に限っては無数の超高層複合都市形態を形成するに至った。
 だが、栄光の時代の陰に置き去りにされた数多の闇の遺産の一部はこうして地下に溢れ返り、どこへも帰り得ぬまま棄て置かれ続けている……。

 ──まあ、不謹慎な話かもしれないが、そういう風に蓄積されてきたものが今こういう形で役に立っているのはありがたい話ではある。
 ……、と言いつつ。
「あれ。こっちか、いや、こっちかな……?」
 手書きで描かれている地図と、実際に今自分が立っている通路の分岐路の全体図がかなりかけ離れている。<エリア01>にはとうに入っている頃合いだから、出口に繋がる道は目の前にある三叉路のどれか一つのはずだが…。

 ……え、……えてる?

「?」
 何?
 突然、言語としては成立していないが何らかの指向性を持っているような声を聞いた気がしてあたりを見回した。しばらくその場で耳を澄ましてみたが、頭上で飴細工のようにひしゃげた配管から足元に滴り落ちる雫が奏でる反響音と、遠く離れた場所から届く列車の地鳴り以外は何も感じ取れなかった。
「何してんの、貸して」
 胸中で小首を傾げている間に、後ろで怪訝な顔をしていたグレーシェルが手に持っていた地図を取る。
「ねえ、レイ。調子悪いとか?」
「いや、そんなことは……」
「見てみなさいよ。あれ」
 呆れ顔でいい、グレーシェルが指差したこちらから見て一番左の通路の奥を、眼を凝らしてみてみる。すると、わずかに明滅している電灯の中に、鉄材が崩れ落ちて塞がっている終点がうつし出された。ああ。と、間の抜けた得心の声を心の中だけでこっそりとあげる。
「ったく、こんなトコで寝ぼけないでよ」
 レイの脇をするりと抜けると地図を丸めてぞんざいにポケットに突っ込み、迷わず真反対の右側の通路へ歩を進めていく。彼女の後を追う形で慌てて歩き出しつつ、空いた天井から光の差す錆にまみれた薄暗い通路を最後に振り返った。
「………」
 出口は三叉路からわずか数分のところにあった。怪しい軋み音を立てるハンドルをがりがりと回し、がこん、と重い音ともに向こう側へ鋼鉄の扉を開く。
 久しぶりだが、そこは随分と見慣れた空間だった。
 極力光源を絞った照明の下に広がる、濃い紫煙の充満する薄暗いロビー。傍から見れば明らかに堅気でない人種の者達が一脚のテーブルに数人ずつ詰めあうようにして座り、ぼそぼそと会話を交わしている。ほとんど者が銃器類或いはそれに準ずる殺傷力のある得物を身に付けているか、卓上に置いていた。別の入口から入ってきたのか。知らなかったな…。レイはその光景を一段高い位置にある通路から眺めつつ、脇の階段を下りてロビーへ足を踏み入れ──。
 カウンターから出てきた男が踊り場に仁王立って道を塞いでくれたおかげで危うく鼻先をぶつけそうになった。消火栓のように太い首の巨躯の男が、肩からウッドストックのAKMを引っ提げ、沈黙のままこちらを睨みすえている。
「………」
 普段なら目線を交わすだけで通り抜けられるが、この男の姿はレイの記憶の中に存在しなかった。レイは浅くため息を付いて、レザーコートの内側を見せた。続いて降りて来ていたグレーシェルに「新人だよ」と伝え、彼女は「あ、そう」と興味なさげに呟いてレイと同じようにコートに手を伸ばす。
「用件は?」まだ通す気がないらしく、大男は見かけどおりの野太い声を発した。「奥の変人に呼ばれてる」切り返すように素早く応え、足早に通り抜けようと一歩踏み出すと今度は首元に帳簿を突き出してきた。……客を殺すのが趣味か、こいつは。帳簿には幾人か覚えのある人物の名前が書き込まれている。これに記せ、と(最初にここを訪れた時以来だ)。クリップに挟まれていたペンで「Ray」と書き込み、グレーシェルに手渡す。彼女はレイのみにしか分からない程度の小さなため息を付いてみせ、それから滑らかに記した。
 書き記された二人の名と容貌をそれぞれ見比べた後、男は怪訝な表情を作った。
「何か?」
 鋭い目つきで彼女が睨みあげると、「……いや」と、少々哀れにも思えるような声を上げ素直にカウンターへ引き下がっていく。大男を尻目にロビーを素通りし、非常灯しか灯されていない階段をニ、三階さらに下りて番号の振られた扉が左右にある通路の最奥の部屋前で立ち止まった。
 部屋番号は「4×4」。ここの家主曰く曰く、×のところに元々刻まれていたナンバーは、自分にとって不吉の象徴であるから、大家に黙って削ったとかなんとか。
 ノックをしても部屋の主が応対してくるかどうかは今までの経験から甚だ疑問だったのでノブに手をかけて遠慮なく室内へ踏み込む。
 室内はロビーと似たような雰囲気を醸しているが強烈な香り煙草のにおいは上階の比ではなく、加えて甘ったるくねばねばした香油の香りが最悪に絶妙な具合で交じり合っていた。
 書類の山積みになったデスクの反対側からあからさまな喘ぎ声が漏れ、デスクの照明によって壁に映し出された重なり合う二人分の影が激しく蠕動している。無言で足元にあった紙くずを、仕事をサボってよろしくやっている阿呆目掛けて放り投げると綺麗な放物線を描いてそれは書類の向こうへ消え、続いて驚きの声と共に派手に倒れる音が響いた。ずれた眼鏡を直しながら細面に無精ひげを伸ばした男が顔をのぞかせ、
「お、来たな。続きは後だ」
 焦るでもなんでもなくむしろ緩慢とした動きで立ち上がった男、アレクセイは半円形のソファにかけてあるセーターを着込みつつ、二人を中へ招く。
「あら、いらっしゃい。久しぶりじゃないの」
 反対側から相棒でもあり愛人でもある、バニーガール(また変わってる…)姿のドミニカが口惜しげな言葉を呟きながら出てきた。
「私達に用って?」
「そう急くなよ。手間かけさせて悪かったな?」
「いや、別にいいよ」
 キッチンで人数分の珈琲を入れてきたアレクセイが、二人の前にカップを置きながら軽く謝罪する。一緒にキッチンへ入ったはずのドミニカはシャワーを浴びにでも行ったのか、それっきり姿を現さなくなった。
 向かいのソファに腰を下ろし、少々は片付いている(それでも雑誌や空になった飲食物類は遠慮なく散らかっているが)テーブルからいい気分のしない香りのするあの煙草を探し当てて、額に垂れたブロンドをかき上げながら口端で一本くわえた。アレクセイは精神を仕事に切り替えるため肺腑一杯に煙を吸い込み、長い時間をかけてゆっくりと吐き出し、そして言葉を継ぐ。
「──お前ら、旅団の話は聞いたか?」
「旅団……ああ、何かそれっぽいのは」
 アーケード街で煙草屋がそのような事を言っていたのを記憶から引っ張り出す。どこかの勢力が<解放区>成立に向けて動きだすとか何とかっていう──。
「そんなトコだと思ってたけど」
 旅団といえば大抵は、首都圏を主眼において武力闘争を展開する多くの民兵団の筆頭と目され、常に最左翼で暗躍を続ける<如月旅団>のことを指す。
 三年と少し前──中東で起こったあの事件以来、極東の国で初めて政府機関に対し明確な軍事行動を起こした武装集団が現在の旅団の前身とも噂され、それが事実であるなら彼らが全ての草分けという事になるが、まあ、その辺の真偽は定かでないということにしておく。
 ただ、確実に言えるのはあの日を境に、<首都圏動乱>が勃発したという事実だけだった。
 如月旅団は現在、高機能都市化計画の最大の産物の一つとも言われる中央統合駅の周囲に点在する解放区を傘下に治め──アレクセイが活動拠点としているここもその内の一つである──さらに勢力を拡大すべく近年はその動きを活発化させている。
「旅団が二月前、北東区に<エリア28>を成立させただろ?」
「近くにもう一箇所建てるつもりだって聞いたな…」
「ああ、あの地区にはエリア28以外、解放区は今のところ存在しない。拠点からかなり距離のある旅団にとってはそれが致命的に面白くないわけだな」
 解放区──、首都圏動乱の渦中において、政府体制……即ちあらゆる国家権力の及ばなくなった或いは形骸化した独立型複合都市をそう呼ぶ。
 中央統合駅と並んで三十年前の機能都市化計画の最たる成果とされ、具体的に述べるなら最大単位での<都市>に内在する形で周辺部との相互経済関係を極力取り持つことなく、独力で都市形態の長期維持が可能な密集型産業建築物群、というところである。
 そのようなエリアを占領することができれば、反体制を標榜する闘争組織にとってこれ以上理想的な拠点は今のところ他にない。それに加えて周囲を民間の支援組織が多く混在する<準解放区>で囲めば文字通り難攻不落の城塞となる。  ほとんどの解放区(便宜上、エリアに解放区番号を付加したものを呼称する場合が圧倒的に多い)はそれに準ずる形を採用しているが、しかし実際にはそれも同様の解放区が隣接しているからこそ可能な話でやはり超長期的な戦闘行為を持続するには都市形態の維持技術云々とは関係なく、相互間の協力体制が必要不可欠になってくる。
 エリア28は実に突発的に成立した解放区だった。前日の機動隊を主軸とする政府勢力との接触でそれまで燻っていた市民感情が箍が外れたように一挙に爆発し(あの辺は少し複雑な問題もあったと聞いている)一夜にして該当区を占拠、通常の手順をものの見事にすっ飛ばして第二八解放区が生まれたのだ。
「恐らく、新しい解放区を打ち立ててエリア01からの支援負担を軽減させる魂胆なんだろうな」
「いくら裏道を駆使しても、欺き続けるにはやっぱり限度があるしねえ…」
 アレクセイの見解に同調しつつ、グレーシェルは苦い味しかしない珈琲を慣れた顔で啜る。
 ここ、第一解放区──エリア01は左派民兵組織群の中核を成している如月旅団が本格的に腰を据えている本拠であり、彼らはこの地から近隣解放区への大量の武器供与及び資金提供を施しているとされる。先日北東区に成立した第二八解放区へそれらを効率よく流すには中継地点とするべき解放区が必須なのだが、周囲には中小規模の準解放区が散在するのみで上手く物資の輸送ができていないのが現状だった。また一挙に暴発でもしてくれればありがたいのだが、生憎いつになるか分からないそれを待っていては、エリア28が瓦解し北東区の情勢が最悪の方向へ向かう可能性の方が遥かに高い。故に、手遅れになる前に先手を打って部隊を送り込みサボタージュを施すつもりなのだろう。
「その為の動きが近いうちにある、と……」
「ああ。遅くても二週間以内には何らかの変化があるとみていい」
 一旦そこで言葉を切り、その場の全員が珈琲を啜る。かすかにドミニカがシャワールームで鼻歌を歌っているのが聞こえる以外には、誰も口を開こうとしない。正確には、どういう風に継げばいいものか、という雰囲気すらある。と、そこでグレーシェルが手に持っていたカップを唐突にテーブルに置いた。
「で、話は? こんなことのために呼んだ訳じゃないでしょ」
 心なしか、表情を隠すようにカップの底をこちらに向けて最後の数滴を呷っていたアレクセイの肩が揺れたような気がした。
「あー、そうだなあ──」
「さっさとしてちょうだい」
 明後日の方向に苦笑いを浮かべた顔を向けていた彼の表情が凍りつく。足の間に大きく頭を落としてうな垂れたかと思うと、次には「仕方ない」というようなため息をついて吸殻を灰皿に押し付け、新しい煙草を取り出して火を灯した。
「この時期に頼むのはアレなんだが……」
「いいって」短く切り返す。あのことを知っていて遠慮しているのだろうが、そのことならアレクセイ側の人間ならともかく、こちらには全く関係のない話である。それが有益なものか否かは自分達が決するべき問題だ。
「──言っとくが、今回の仕事、俺は賛成しかねるぞ」そう前置きをして、足元のバッグから茶封筒を一通取り出しレイに手渡す。
「誰?」
「高原財閥のお嬢さんだよ。明日晩、所定の会合場所へ向かってくれ。一応俺も立ち会う」
「──わかった」
 それだけ簡潔に言い、グレーシェルに目配せして席を立つ。丁度、ドミニカがバスタオルを一枚巻きつけただけの格好で姿を現した。
「あれ、もう帰っちゃうの? ゆっくりしてけばいいのに」
「仕事が控えてるから、また今度にでも」
 社交辞令で彼女の頬に接吻すると、二人は4×4号室を後にした。


 あいつは相変わらずだ。グレーシェルは内心そう呆れ返りながら集会場を去り、地上に続く螺旋階段を上っていた。自分より若干身の丈の高い男が、墨色の髪を揺らしながら前を歩いている。
 高原財閥──、そこの<お嬢さん>がアレクセイを通じてよこした仕事というのは、近日中に如月旅団が見せるという動きと何らかの関連性があるとみていい。しかもあまりよくない方向で。第一解放区を根城に、如月旅団に半ば与して活動しているアレクセイにとっては、それが非常に面白くないのだろう。依頼を断れなかったのは、それ相応の報酬があったからに他ならない。結局、どこまでいっても半端な男だ。グレーシェルにとって、あの男は嫌いではないが到底好きにはなれそうもない人種に分類される人間だった。そして、得てしてそういう者ほどはやく身を滅ぼすものだと知っていた。あいつがそうなるかどうかは知った話じゃないけど……。
 レイが一足先に開け放った扉を抜けて地上に歩み出ると、既に外は夕刻を迎えていた。等間隔で蒸気が噴き出す裏路地をここに寄った際にいつも使用する帰路の通りに進み、跨線橋脇にある地下鉄口へ向かう。
 と、階段の踊り場に差し掛かったところでレイが何の前触れもなく立ち止まった。
「どうしたの?」その問いに答えず、レイは辺りを見回すと無言で踵を返し脇の石階段を駆け上がっていった。最近どこかおかしいと思ってたけど……。このまま放って帰るのも何なので雪に残った足跡を追う。
 中央統合駅を物理的な基盤として聳える首都最大の摩天楼群を視界全体に見晴るかすことのできる跨線橋の中ほどに、レイは佇んでいた。
 浅く降り積もった雪と相まって、闇の帳に落ちかけた世界全体が仄かに赤く染まっている。真下の高架鉄道を、数十輌の貨車を引き連れた貨物列車が規則的な音を立てながら走り抜けていく。
「レイ──」

 どこも見つめていなかった。
 レイの眸に映っているのは、彼だけが知る世界だけなのだと、しばらくその場で眺めているうちに悟った。

 静かに眼を伏せ、同じように瞼を上げる。
 そして、確かめるために、レイに向けて研ぎ澄ました殺意を飛ばした。

 ──舞い上がる雪煙。

「また、みてたのね……」
 彼女の華奢な首に突き立てられた刃。何かを確実に見失っている眸。
 しかしグレーシェルは、血が滲むほど柄を堅く握り締めたレイの拳に、そっと手を添えるだけだった。氷のように冷え切った手に暖かみが戻ると、やがてレイは「あ……」とひどく頼りない声をもらした。
「大丈夫だから…」
 穏やかな笑みを浮かべ、レイの手から得物を受け取ると彼のコートの裏側へ戻す。

 夢。

 ──それは、遠い日のこと。

 でも、想い出にするには苦し過ぎる記憶。







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