もうすこし……。
幾重にも折り重なる樹冠の隙間から届く淡い月明かりのみを頼りに、しかし足元に何があるのか意識を向けることもなく樹々の間を縫うように駆け抜けていく。固定した視界をずらさぬようそちらに意識を傾注しつつ、腰に引っ掛けた鞘から銃剣を抜き払う。肺が焼け爛れたように熱く、息が浅く短くしか続かない。両足も足枷を嵌められたように重い。だが、それに対して焦る必要はない。無視できる。そうできるよう研鑽を重ねてきた。まあ、たとえそうでなくても実際のところあまり関係はないのだが。
ぬかるむ地面の僅かな変化をつま先が捉え倒木を飛び越えたと同時に、前方を着かず離れずで走っていた影がようやくこちらに振り返った。一旦闇に溶け込んでしまえば、たちまちの内にその姿を消してしまうようなほどの相手の姿が月光の下にさらし出される。垂らした総髪の隙間、妖しい光を放つ眸が奇妙なほど映えて見えた。何度もその眸を見てきた。そこだけは、何も変わっていなかった。出来るかぎり低く地面を這うように疾走し間合いを詰め、何の迷いも逡巡もなく首筋の一点に狙いを定めて刃を振り上げた瞬間、視界の隅で光が走った。後方回転気味に跳躍し、佇立していた樹木を足場に反転する。空いている方の手で頬に触れると、ぬるりとした生温かい感触がまとわりついた。
かすっただけか……。
相手は笑みを見せることもなく、刃渡りが軽く三尺強はある得物の軍刀を下段気味にだらりと下げたまま感情の全くない顔をこちらに向けている。だが、あの眼から発せられている殺気は明らかに本物だった。重力が身体に働きかける前に渾身の力をこめて足場を蹴りつけ、突進。避けられるのは分かってる。案の定、素早く跳んでやり過ごすと身を翻して再び走り始めた。このやりとりも、もう何度目になるだろう…。得るものは互いになにもなく、むしろ代わりに周りの大切なものをじわじわと削りあってきた。
だが、それもそろそろ終りにしなければならない。無言で走り続けるうち唐突に森が途切れ、河川が視界に飛び込んできた。先ほどのスコールの影響で水量を急激に増し、激しい轟音を立てて河口へと向かっている。彼は一時だけ立ち止まるとすぐに方向転換して河岸沿いに上流へ上りはじめた。途中激流の中にぽつぽつ腐乱死体の背中が浮き沈みしながら流れていくのが見えた。
思うように視覚の効かない森の中ならともかく、完全な闇の途切れたこの場で追いつけない道理は足場の悪さを抜きにしてもない。実際、急速に相手との距離は狭まっていた。
水流は相変わらず激しいが、水嵩がせいぜい膝下程度までしかない沢に至ったところで抜刀と同時に向き直り、互いに間合いへの侵入をぎりぎりまで許してひきつけた末、打ち合う。しかし、互角ではない。相手が振るうのは、家伝の業物を仕込んだ実戦本位の得物、片やこちらは量産機械製の切れ味すら甚だ疑問の銃剣。唯一刃渡りが同じ程度で、強度などは比較にすらならない。早い話が、出来が違う。
でも、それでも、戦うことは出来る。
斬り結ぶ瞬間、腕をわずかに引いて刀身にかかる衝撃をなるべく相殺しつつ、相手もそこに生まれた空白に引きずり込まれてバランスを崩さぬよう剣戟の応酬を展開する。そこまで来ると最早経験云々の問題だけではなく、ただ極限にまで研ぎ澄まされた感覚が要求される領域である。すこしでも加減を間違えれば、忽ち刀身ごと身体を両断されるだろう。
かわした袈裟懸けの隙に入り込み刃を突き立てようとしたが、人外の速度で切り返されてきた兇刃に得物ごと自身の身体を宙に弾き上げられた。続いて伸びてきた手が首を鷲掴みにして強引に水底へ叩きつける。視界に火花が散った。くそ。意識が飛びかけているのか水中にいるからなのか判然としない歪む世界の先で、あの眼が自分を見下ろしている。そしてそれと同じ殺気を放つ刃の切先が心臓目掛け──ふざけるな。皮膚に鋭利な物体が触れた刹那、顎を蹴り上げた。間髪いれず相手がのけ反った隙に立ち上がり、銃剣を薙ぐ。
どっ……。
鮮血が散る。……? ニ、三歩よろめいて後ろへ後退した男は、狙ったはずの首筋ではなく右の肩口を抑えていた。指の隙間から朱の液体が景気よく吹き出す。
痛覚の遮断が遅れたか…。彼は舌打ちすると迷わず、森の方ではなく向こう岸に向かって跳躍し、上流から流れてくる死体の背を踏み台にして渡りきった。同じようにして後を追う。どこへ行こうとしている…。
再び森の中を走り続けやがて、萌葱の草本が辺り一面を埋め尽くす草原に飛び出た。そこでぴたりと進むのを止めた。血まみれになった軍刀が手の中からずるりと抜け落ち、地面に突き刺さる。腕を伝って滴る夥しい鮮血が彼の足元に血溜まりを作り上げ、静かに大地へと染み込んでいく。
こちらに背を向けたまま濃灰色の夜空に浮かぶ朧月を振り仰ぎ、
「──私は、貴様を知っている」
低いが、しかし恐ろしく淀みのない澄み切った声。
「そりゃ当然だ」
もし知らないか忘れているとしたらそれは彼がついに壊れ始めていることの証左に他ならない。そういった意味合いでの言葉には到底思えなかったから、一瞬こいつは何を言い出すのかと怪訝に感じた。
「何故、貴様は諦めない?」
「お前達は、我々から逃げた。近いうち、必ず障壁になる」
「違うな」切り返すように否定される。「……彼女を、愛しているからだろう」そう、確信を滲ませて彼は言った。
間違っていなかった。
「私は、彼女を許さない。いつか、必ず、殺す……。彼女の血で、全てを贖わせてやる」
「……筋違いだろ、それは」
「………」
「十四年前、お前が我々に賛同したのは彼女の責任じゃない。お前は分かっていたはずじゃないのか? その上で背負うことを覚悟したはずだ」
「だが、結果として多くの同志が犠牲になってしまった。それを彼女の犯した過ちとせずしてどうする……」
「その程度のリスクすら予知できなかった、受け入れられなかった、お前の過ちだよ」
一時の沈黙。それが彼との間に刻み込まれた隔たりのほどを容易に感じさせる。
「お前がまだ報告書の一部を所持しているのは知ってる。帰ろう、今なら彼もお前を許す」
「いいや、彼は私を殺すよ。必ずな。私たちが残してきた爪痕は、決して浅くはない。私にとって、あそこは理想の生き場だった。だが、私の居場所ではなかった」
「何故そう思う?」
「貴様には決して分からんだろうな。あの苦しみが。痛みが。死が。あの生き地獄へ再び自ら戻るという事が何を意味しているのか」
「……そこが、お前の唯一の居場所だ」
「貴様には、分からない……」
振り仰いでいた視線を戻すと、彼は肩を抑えたまま、一瞥をくれることすらなく若干不自然な足取りで前へと歩み出した。もう、選択の余地はない。柄を握りなおし、一歩、足を踏み出す。視界が、吹っ飛んだ。
──世界が、赫く染まっていた。
どこからともなく産まれ出でた真紅の炎が大地を嘗め回し、森を包み込む。その中で、彼が首だけを回しあの眸でこちらを見ていた。
「私達は今夜、自由になる」
それだけ言い残し、去っていく。追いすがろうとしたが、その場から動けなかった。
何か、いる……。
やがて、彼の消えていった業火の奥からそいつは現れた。
白銀の長髪を靡かせ、この世のどんな赤よりも赫く、どんな闇の深遠よりも暗い眸を持つ者。
「……お前も、同志なのか?」
答えはない。だが、必要なかった。その者が放つ気配は、三年前に出会ったあいつと全く同質のものだったからだ。
おそらく保険を兼ねた最良の迎えとして、彼がよこしたのだろう。
「結城部隊は、我々の管理下にあったものだ。我々の遺産だ」
その言葉を受けて、彼女は意外そうに片眉を上げてみせ、それから口許を大きく歪めて笑んだ。
「いいえ? 彼は私達の家族よ? だから、我々のモノなのよ」
彼女の放つ言霊に準じ、頭上の曇天を赤銅色に染め上げていた炎が変貌する。彼女の眸と同じ、この世のどんな赤よりも赫く、どんな闇の深遠よりも深く暗い業火へと。
「貴方のその眸……恐れてるのね? 彼と同じよ」
火を纏う彼女は歪んだ妖艶な笑みを浮かべたまま、自らの腕を差し出してきた。
「どいつもこいつも……。何度も言わせるな」
最後こそ何も言わずに去っていたが、彼は、本当は知っていた。そして、この数年間の暗闘の中で、死に絶えていった彼の部下達も。自分の仲間も。皆。
「俺は……俺の本分を全うする。それだけだ」
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