狸の食堂
あばら参道を脇道に逸れてから入り組んだ小道をしばらく進んだ奥にある、古ぼけた狸のような置物の食堂。店の名前は「狸食堂」、らしい。廃屋のような町屋を改装して立てられたその大衆食堂には看板と呼べるような代物は一切かけられていない。
私が狸食堂という名前を知っているのは、三段腹の主人、狸親父こと、狸のオーナーが以前に一度、言っていたからである。その一度というのも、新規であった私が狸食堂を訪れた十五年前の一度っきりであるのだが。つまり、この店の名前が本当に狸食堂であるのかどうかを確かめる術は私にはない。というのも、狸のオーナーに聞いて以来、彼に尋ねて望む答えが返ってきたのは前述した一度しかないからである。
妙な軋み音を立てる引き戸に手をかけ、その先へと足を踏み入れる。水瓶に長期間溜め込まれてゲル化した香油のような粘つく店内の芳香を鼻腔から吸い込み、軽く喉をすぼめる。何度ここを訪れても、最初に一歩踏み入れた際のこのにおいだけは慣れることができないらしい。
歩を進めるコンクリートが打ちっぱなしの床には生ぬるいというには少し肌寒い冷気が重く沈殿し、足首にいやらしくまとわりつく。どんなに疲れきっていても、下半身がいやに反応してしまうほどである。それを感じる私は異常性癖者の予備軍なのではと、軽く勘ぐってしまう。
いつも通り人気がないだけの店内をまたぎ、店内の奥まった場所にあるカウンターテーブルの席に腰掛ける。薄手のコートのポケットから紙巻煙草を取り出して咥え、目の前のテーブルの上で仰向けになって寝ていた三段腹の狸のオーナーも呼びかけた。
「狸さん、注文」
「だまらっしゃい。今夜は禁煙だ」
休日の砂浜で日光浴に勤しむ黒光りライフセーバーも真っ青な機動力で狸のオーナーは三段腹を細かく震わせながら立ち上がり、私の咥えていた紙巻煙草をけり捨てた。鮮やかな放物線を描いて真っ二つに折れた紙巻煙草がくずかごへ吸い込まれていく。
「給料日前の最後の一本だったのに。勘弁してくれよ、くそ狸」
「うちは二百年前のご先祖さんの時代から一切合切絶賛禁煙タイム中だ。文句は聞かん。どうしても吸いたいのならあばら参道に戻って向かいのとおりを三本小路先まで言って来い。狐の四つ割れ婆が手厚くもてなしてくれる。お前ぇさん好みの口くさいばあさんだぞ」
「勝手に私の好みをセッティングしないでください。別に婆専じゃありませんし、口臭フェチでもありませんから。ていうか私、ゲイですから。三本小路先とか明日小隕石が衝突して地割れおきてマントルまで落ちてしまえばいいとか毎日願ってますから。なんで神様はそんな人の願いをかなえてくれないんでしょうねくそ狸さん」
カウンターの内側に身を乗り出してそこにおいてあった狸のオーナー専用の葉巻を一本拝借して口に咥え、安物のガスライターでくるくる回しながら器用に日をつける。
「それはのう、われらの神は今創世以来最大最長の絶頂バカンスに出かけておるからじゃよ。今頃ラスベガスのスロットに打ち込んで百万ドルほどすっとる頃じゃろうな。狸主人の奥さんが言っておったわ。それにしても、のう、狸主人の奥さんはいつもうら若くてうまそうな尻をしとるでないか」
私の注文した料理の食材に包丁を走らせていた三段腹の狸のオーナーの切れ長の干し葡萄のような眼から朗らかな殺意が溢れ、鋭い光が店内を横切った。
「黙らんかい狸のえろ住職。次世迷言抜かし折ったらその入れ歯を夜這い婆の肥溜めにぶち込んでシャッフルするぞ」
「おお、怖い怖い。そんな肥溜めプレイもなかなか悪くはないと思うがね」
「何何気にすらっと犯罪予備軍的フェチ発言してんですか。ていうか濃すぎですついて行けません」
えろ住職のじいさんの耳を掠めて壁のダーツの的に突き刺さった包丁が柄尻についていた糸に引っ張られて狸主人の手に戻っていく。
「おい客人、狸の熱帯魚にえさやってくれ。二年ほど絶食してんだ。そろそろ食わせてやんねえと俺の指と息子がしっかりかぶりとられちまう」
そういわれて胸中で二年も放置してたら普通餓死するだろとかていうかそもそも店内で熱帯魚飼ってたところとか十五年で一度も見てませんとかいろいろ二秒くらいで突っ込みながら、狸のオーナーの言った狸の熱帯魚を探して粘つく香油の香りが満ちた店内にぐるっと視線をめぐらす。
「ああいましたいました。で、何やったらいいんです。餌どこですか」
「ほら、これで。適当に投げてやればいい。後片付けはセルフサービスだ」
そういって狸のオーナーは私の手のひらにいろんな魚の赤身をぐりぐり混ぜて何物でもなくなったような赤黒いすり身の物体を乗せた。私はそれを一秒たりともふれていたくなかったので、店内のどれかのテーブルに向けて適当に全力で投げつけた
べしゃ、という音とともにすり身の物体が空テーブルの上の灰皿にクリティカルヒットし、灰皿が床の上に転がって甲高い音を立てる。
「おう、ご苦労さん」
「あれでよかったんですかね。そういえば狸のオーナー、狸のファンさんはどうしたんですか?」
「ああ、仕事の方が忙しいってんで今夜葉これねえとよ。あいつも一流の風の女だからな。無理強いはできねえ」
「かー、浮気相手に何紳士ぶった発言しとるんじゃか。気持ち悪いのう、狸のオーナーさんや。男なら根注一根、黙って夜はえろえろ淫乱らいふじゃろうが」
「えろ住職さんよ、あんた明日粗大ごみの日だからついでに捨てといてやるよ」
再び狸のオーナーの目にほがらか花満開の殺意が満ち満ち、私は口で二人の間に割って入った。
「まあまあ、せっかくの今夜なんですから。静かに飲みましょうよ」
そういうと、狸のえろ住職も狸のオーナーも不満げに鼻を鳴らしながらそれぞれ定位置に戻っていった。
「そういえば、この狸の水草、どうしたんです」
「そりゃ置物だ。狸のファンが土曜の路上市で見つけたってんで土産に持ってきやがった。水槽の中はコケでいっぱいいっぱいだってのによ」
そういって狸のオーナーはカウンターテーブルの上にあった透明の水草の置物をむんずとつかみ、手に持っていた包丁でまな板の上の食材ごと細切れにしてしまった。
「あいよお待ち、狸の客人よ。今夜のお勧めの一品だ」
そういって三段腹の狸のオーナーは満面の笑みを浮かべながら“それ”が乗った皿を私の前にことん、とおいた。
皿の上にちょこんと一本だけ乗っていた紙巻煙草をつかみ、口元に運んで咥え、安物ライターを擦過させて先端に紅点を点す。肺腑一杯に紫煙を吸い込み、ゆっくりと時間をかけて鼻からすべては吐き出した。
時刻は夜と朝の境目、もっとも深い夜の時刻。
「あのう、ここって何の店でしたっけ。狸のオーナーさん?」
「あん? そりゃあおめえ、ここは狸の食堂だよ。なんだってんだおめえ。十五年も俺の妻目当てで足しげく通ってその口か」
「そういう訳じゃないですけど」
夜が進み、その紙巻煙草を味わいながら、狸のファンがやってくるのを狸のオーナーと狸の住職さんと待ち続けた。
狸の食堂、らしい名前の食堂はこんな感じで少なくとも十五年続いている、らしい。とりあえず、早く狸のファンさんで目の保養といきたかった。
瞬く間に吸いきった紙巻煙草の吸殻を手元の灰皿に押し付け、コートの懐に隠し持っていた紙巻煙草を一本取り出して口元に運んだ。
その一部始終を見ていた狸のオーナーの切れ長の目がにわかに細くなり、私はそれを見てほくそ笑んだ。
これが、狸の食客である私と狸のオーナーの間のルールである。
私は隠し紙巻煙草の味を堪能しながら、夜を乗り切ることにした。
狸の食堂 終
|