- 雨宿りと鯉のぼり、サラリーマンとみちる -

 



「こどもの頃、ぼくは鯉のぼりになりたかった」
 高架下での雨宿りに居合わせた若いサラリーマンが言った。
 頭上の線路を駆け抜けていく貨物列車が、足許の水溜りにゆがんで映っている。
 みちるは制服のリボンを緩め、高架下に立ち込める初夏の湿気の気持ちわるさを和らげた。スカートのポケットから取り出した煙草を咥え、安物のガスライターで先端に火を点す。ひどい湿気のせいで重い髪を掻き揚げ、みちるは軽く舌打ちした。
「鯉のぼり? なんで?」
 サラリーマンは湿った燐寸の火を急いで口元の煙草に移す。通り雨に打たれて濡れた前髪を横に撫でつけながら、彼はみちるに視線を流した。
「子どものころ、空を飛んでみたかった。ある日、朝になると庭先にあげていた鯉のぼりが消えていたんだ。どうしてだと思う」
「飛んでいったの?」
 紫煙を燻らせながら冗談交じりに訊いたみちるに対し、サラリーマンは下手な笑みをつくる。三流中間小説の描写にでもありそうなその表現にみちるは居心地の悪さを覚えたが、しかし、それを心の中に留めた。
 彼の佇まいのそれが三流中間小説のそれだというのなら、自分はさしずめ携帯小説にでてくるありふれた女子高生のひとりということにでもなりかねない。だから、その意味でみちるは次は笑みを浮かべた。
「隣町の区役所の屋上に落ちてた。どこか木にでも引っかかったのか、鯉のぼりの腹はずたずたになってたよ。笑える話だろ?」
「さあ。少なくとも、私はぜんぜん笑えないんだけど」
 みちるの率直な言葉にサラリーマンは、はは、と年相応の含みのある笑いをあげた。彼は煙草の灰を水溜りに落とし、再び前髪を撫でる。
「大事なのは、そこなのさ。鯉のぼりは落ちたが、あの頃のぼくよりもおそろしく早く、十数キロも遠く離れた隣町へ飛んでいったんだ。だから、僕は鯉のぼりにあこがれた。怒りもしたね」
「鯉のぼりに嫉妬? 子どもらしい可愛さじゃないの。ちょっと情けないと思うけど」
「かもしれないなあ。でも、ぼくは今でも鯉のぼりのようになりたいと、時々願うことがあるんだ」
「どうして?」
 そう訊きながら、みちるは高架下の外へ視線をなげた。先ほどまで地面に叩きつけるように降っていた通り雨は、その始めと同様のきまぐれさで止み始めていた。でこぼこのアスファルトにできた水溜りに吸い込まれる雨足が静かになってきている。
 みちるは吸殻をその足もとの水溜りに落とし込み、新しい煙草を咥えた。貨物列車の通過を待って、高架下のレンガ壁から背中を離した。
「あんなに高いところを泳いでいられたら、世の中がよく見えるんだろうな、て」
「ほかの何かでもいいじゃない。なんで今、鯉のぼりだったの」
「ぼくにとってそれが、一番身近で喩えやすいものだったからだよ」
 若いサラリーマンの余裕の態度に、みちるはすこし気分が悪くなった。その男の前を横切って高架下から踏み出し、空を仰ぐ。まだ止み切っていない通り雨の雫が頬に触れた。
「じゃあね」
 サラリーマンの返事を待たず、また、振り返ることもせず、みちるは蜃気楼で歪む街中へ向かう。
 水たまりに踏み入れたローファが溜まり水を控えめに飛ばし、しかし、みちるは慌てず水たまりを渡った。
 もう一度、今度は雲の裂け目に出来た青天を見上げた時、通り雨はどこかへ行っていた。
「鯉のぼりだったら、どっちへ行ったか見えたのかな」



                         終


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