茶屋

 


 茶屋

 坂上二本松を過ぎてから程なくして、茶処が目に入った。
 夫婦松に寄り添う油蝉が煩く、その嘶きにおされて私は足を早める。
 青々とした水田から畦道に掛けて夏風が抜け、若い息吹を身に受ける。額に浮く汗が覚まされ、幾分か暑さが和らぐ。見れば見事な山吹色の菜の花が水田周りに咲き、初夏の山風に揺れている。
 山間盆地の立地に適ったその穏やかな風景から、行く先とする町柄が俄かにでも感じ取れた。
 堆い山雲の流れる天は遥か高く、照りつける陽光が、往く畦道の先端を小さく波立たせる。旅衣装の袖口で額の汗を拭う。揺らぐ先端の奥地、水田帯の真ん中にぽつんと立つ茶処へ漸く足をつかせた。軒先に吊るされた青銅の風鈴が、りんと鳴る。
 熱波に茹だつ肌が、それだけで涼しさを取り戻した。
 軒先の暖簾に手を手を書ける前に、茶処の全貌を見回した。
 木造りの質素な風体で、母屋らしき裏手を併せてもその敷地はごくこじんまりとしている。脇に立つ立派な松の大木が、それを一層際立たせているのかもしれない。
 名こそ見当たらぬが、人伝に耳にしていた茶処の軒先へ姿勢を落ち着かせようと、腰を下ろす。
 存外疲労が溜まっていたようで、半ば落下同然に座ってしまった。
 相応のゆったりとした足取りではあったが、流石に早朝から歩き通しだったのでは無理もある話だ。背に負った布嚢を下ろしつつ、店内に呼びかけた。
「すまんが──」
 人気のない店内は薄暗く、しかし清廉とした落ち着きがあった。数席分の椅子と座敷──その奥に、母屋に通じると思わしき勝手口があった。一寸ほど待って袖口を額に伸ばした頃、漸く店内の奥から応答の声が上がった。
「はーい、お待ちにー」
 ぱたぱたと下駄の音を鳴らしながら店内を移動し来る、女性の声を聞く。聞く声の限りでは、相応に若い身空のようだ。腰掛けの左手で下駄の音が止まり、見上げた。
「きょう日暑い中、いらっしゃい。これで、汗なっと拭ってくださいな」
 想像していたより若い風貌の女将が差し出した手拭を受け取る。その際、柑橘類か何かの香油の香りが、鼻腔を仄かにくすぐった。
「何になさいます、お客さん?」
「──茶を一杯、頂けないだろうか」
 あい、すぐに──と、淡い微笑みを残して女将が再び店内へと去っていく。何処となく幼い顔立ちだが、振舞いや墨色の長髪を髪留め代わりに筆で纏め上げた成りは間違いなく、成人のそれだろう。若女が好みそうな香油が、彼女を妙齢の具合に見させているのかもしれない。実際の年頃は、自分と然程変わらないのではないだろうか。
 冷えた手拭いを、額に当てる。
 大粒の汗と熱が素早く冷まされ体感温度が、ふ、と低くなった。衣装の隙間から首筋、胸元、脇下と同様にふき取ってゆく。
 軒下と松の巨木が生む大きな日陰のおかげで、程よい清涼感が全身を覆う。背を圧す程にがなっていた蝉の合唱も、そのヴェールを隔てて俄かに遠く聞こえる。
 女将が盆に陶碗を乗せて戻る。一礼して受け取り、碗の縁を口許に当てる。汲み上げた井戸水で冷された茶が、干からびた咽喉に透くような潤いを与えた。
 冷めても尚、濃い芳香を保つ茶は旨い。
 初夏という時期をみて、新芽の一番茶だろう。
 加え、純粋に女将の茶の淹れ方も上手なのだろうと思う。
 一気に呷りつつも碗に一杯分を残し、素直に感心を口にした。
「あたしらの里は、茶場に力入れとりますの。よく中央の商いさんも取引に来られます」
 前置いて、女将が隣に腰をそっと下ろす。控えめな容姿に違わぬ謙虚さだ。
「お客さんも、商いでこちらんに?」
「ええ。あ、いや、私を伝を頼りに探しにきた身でして」
 女将は、あら、と口許に手を添える。しかし、あまりに物珍しそうな表情はしていない。私が身を寄せようと考えている行き先の事を考えれば、当然だろうと思う。
「こちらの宿場町に、丁度いい仕事の口があると聞きまして」
「そおなんですか……失礼ですけんど、お客さん、どちらから?」
「東の──帝、奉ヶ崎という所です」
「そらまた、ずいぶんな遠方から来なさったようで。ご苦労様です」
 いや、所詮職探しの身分ですから──と口には出さず、太腿を叩いて苦笑する。言われに関しては、全くその通りだった。東海道の鉄道を使わず、徒歩でここまで来た身である。特別な寄り道なしで向かった分、二週間強で到達したとはいえ、相応の疲労感は拭えない。
 冷えたとはいえ、衣装に染み込んだ汗はどうにも気持ち悪い。
 碗に残った茶を啜った。
「最近の特需でウチの里も、儲けとります。帝都さんも随分商いが良いようでして?」
 かつてこの宿場を中核とする山間盆地は、優良な茶葉の生産で名を知られていた。昨今、大陸半島での支那との戦役を終えて以降、国内は維新後最大の特需に湧いている。
 全国各地の宿場町が縮小傾向にある中で幸運か、その恩恵を幾らか受けているのだろう。
「せだけど、ほんまにロシィヤさんとの戦なんてあるんでしょーか? 田舎なもんで世俗にはこの通り、疎いんですわ」
 紐を解いた着物の裾を揺らし、女将が嘯く。
「どうですかね──自分も、然程明るくないもので。帝都が盛っているのなら、私達としては他に望むもののない恩恵だとは思いますが」
 陶碗の縁に指を滑らせる。例によって淡く微笑みながら、女将がこうべを垂れた。田舎盆地とはいえ客商売故の慣れた所作だろうが、白々しさは感じない。ごく自然体に近い風情だ。
「しがない茶処の女ですう。そんなトコまで関われませんわ。お客さんはなんでまた、帝都からこちらに? お仕事の口でしたら、あちらの方が困りませんでしたでしょうに──あ、他意はありませんで」
 気にせず、という意図を含めて首を振る。
「あの騒がしさには、私の身には少々苦いものだったようでして」
 苦笑を交える。往来より大人しめな自分の顔立ちを見てか、女将が柔和な笑みを持って応える。二重瞼の下の双眸が一度、私の手元へと切られた。
 意識していなかったが、唯一の荷物である布嚢に手が伸びていた。
「商売道具ですか?」
「未定ですがね。先の宿場でまた、別の仕事でも見つかれば……」
 帝都の古巣にあった斡旋所で得られた伝は凡そ、自慢できる種の類でもない。少なくとも今、舌鼓を打った茶葉の特需に繋がるようなことは一切ない。
「ところで、女将……」
 生白い手に持っていた碗を控えめに傾けていた彼女が、「はい?」と振り向く。
「番頭の所在を、ご存知ないだろうか。であれば、是非お教え頂きたいものなのですが」
「番頭さん? 町長さんやのうてですか?」
 疑問に思う所への言葉を省き、はい、と応える。女将もそれとなく意図を察したのか、詳しくと紡ごうとはしなかった。
「番頭さん言いましても、えーと、どこの方ですか?」
「……あー、石継屋という旅籠なんですが」
「あ、それでしたら坂越さんところですねえ。あの方でしたら、えーと──」思案しつつ、彼女が親指の背でこめかみの粟立ちを拭う。指を下ろした時、何かに気づいた彼女の視線が畦道へと向けられた。
 倣い、その方へ姿勢を傾ける。
 うだる夏風にじりじりと揺らぐ畦道を和装姿の女子が抜け、茶処の暖簾を潜った。
 その女子とまずはじめに視線が交わり、ふい、と彼女の方からそれを反らす。
「綾芽サン──」「あら、どうしたん?」
 女子の声音はひどく大人しく、涼しげというにも聊か不足気味な風貌に違わぬものだ。根拠などないが、どこか女将と似た雰囲気を感じたが、無駄口は挟むまいと口を閉じた。
「篠サンが呼んどる。今夜、霧槇屋(きりまきや)で会合するとって」
「へえ……うん、わかった。また後でって言うといてーな? ──お客さん?」
 外の明後日を見て距離を保っていた所を呼びかけられ、「はい?」と少々遅れて返答する。
「今夜、お泊りになる所はきまっとられってですか?」
「いえ、宿場に入ってから考えようかと……」
「仔細なかったら、見知りの旅籠で休んでいかれませんか? その子に案内させますんで。ついでに、石継屋の番頭さんトコも、任せますわ」
 少女は軒下で変わらず涼しげな態度を保つ。女将が視線を重ね、女子は頷きもせず、表情も変えない。
「構わないので?」
「構いませんで。水先案内もあたしの仕事ですうから。半ば、趣味ですけどね」
 伝を頼りにはしたが、宿場町へ達した後の予定は明確にしていなかった。渡りに舟というものかと、私は頷く。里へ入る手前故に困窮してはいなかったが、初めて踏むと土地であるなら、紹介を受けるに越したことはない。
 茶を一杯頂いたごく短いがだけの間柄だが、彼女は信に足る異性だと強く確信している。
「では、ご厚意に甘えて──」
 軽くこうべを下ろす。ゆったりと、女将は「いえいえー」と応えた。
 ふ、と軒下に陰りが差す。どこぞより流れてきた青雲が太陽を覆った。その裂け目から漏れる陽光が水田に光陰の対比象を象っていた。
 油蝉の合唱が不意に静謐を孕み、風鈴が陰りの風を受けて控えめに揺れる。
 一時の清涼と静けさに身を委ねた後、布嚢を背に回した。駄賃を座面に置いた碗の傍に添える。
「ご馳走になりました、女将」
 彼女はにこりと笑む。
「大した茶も出せませんで」
「いえいえ……じゃあ、お願いできるかな?」
 女子は明応する代わりに、小さな背を翻す。一足先に暖簾を分けた。
 随分と無愛想だが、不躾ではない。心地よい冷淡さすら感じうるものだった。
 涼しげな畦道へ踏み出し、茶処の軒下に立つ女将を振り返る。
「宿場町に就く事があれば、また寄る機会にも恵まれるかと。私、上ノ本といいます」
「頑張りなさって。上ノ本さんなら、良い仕事の口が見つかりますよ、きっと?」
 互いに社交ではあるが、気味の良い会釈を交わす。
「最後になりましたが、ようこそ此処までおいでました。"深領家"へ……」
 恭しくお辞儀する女将へ軽く頭を下げ、それから数間先を行く女子に続く。
 ひんやりとした追い風が、背から周りを吹き抜ける
 明白な動機はなく、はっとして振り返った。女将が額に手をかざしながら、律儀にも長く見送りをしていた。
 その間に陰りの境目がなくなり、焦熱の夏風と陽光が再び燦々と降り注ぐ。指揮者の再登場を待っていたかのように、油蝉の演団が中断していた演奏を始めた。
 女将との距離が、分厚く壁によって隔てられるような錯覚を覚える。
 同じように手をかざし、空を仰いでから畦道の先へと視線の行く先を繋ぐ。
 女子が立ち止まって、待っていた。
 畦道の奥、深領家の境界地を示す見附を視界に収め、私はそこへ向かう足を早めることにした。



 茶屋 終




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